その流れに、2つ目の湧き水( 千早町2丁目の観音堂の南にあった = 多分「長崎公園」の辺り? )が西から長崎2丁目の休日診療所辺りで合流します。更に3つ目の湧き水( 今の長崎小学校と椎名町小学校を結ぶちょうど中間点辺り = 「西武線の線路上」かその一本南側の低い道の辺りです。この低い道の鋪装の下からは以前川砂が出ています。)が、椎名町サミットストア前か踏み切りの辺りで、この「谷端川」と合流してました。
この川は椎名町駅のホーム南側で急に東へと曲がり、あの焼き鳥屋さんのある細い路地を抜けて、フタバ図書の前の桜並木を駆け抜け、山手通りを越えて少し行った所でカーブしてまた北へと向きを変えます。そして山手通りの直ぐ右側( 東側 )を、通りとほぼ平行して駆け上がって行きます。もちろん昔は山手通りなんてありませんから、川は周囲の水田の中をのどかに流れて行きました。
現在その同じ経路を辿っている、あの山手通りの直ぐ東に延々と続く「谷端川緑道」こそは、今は地下にと埋め殺されて下水道化されてしまった、この長崎村の産みの親、母なるガンジス…じゃなかった母なる「谷端川」のお墓なのです。 合掌… なんちゃって! ちょっと入れ込み過ぎかな? でまた、もとい!
川は今の要町交差点の直ぐ東側を通って高松一丁目のワキを擦り抜け、そしてそこでもまた4つ目の湧き水( 高松2丁目と要町1丁目の境目辺りにあった = 「浅間神社」の辺り? )が、その流れにと合流します。
そうやってまるで、長崎村を抱くように巡った「谷端川」は、高松町の東側で遂に長崎村から離れ、池袋3丁目の現在の「谷端川親水公園」の場所を最後に、名残惜しげに北東へと流れ去ります。( ←「モルダウ」を作曲中のスメタナかよっ?!…って三村に突っ込まれちゃいそ… )
野菜栽培が盛んになった頃、この「谷端川親水公園」の場所は、農家の人たちが出荷前の野菜を洗って泥を落す「洗い場」でした。そして今では此処は、当時の流域中で唯一、地上に残る「谷端川」の痕跡となっています。( かな? )
『 平野部にある多数の水源の謎 』( もうとっくに知ってる人は、突っ込まないで下さいね♪ )
長崎村はこんな風にこの壮大な谷端川のまさしく源流地域なのですが、ここで多分大抵の人は不思議に思うでしょう。大した起伏も無くて殆ど平坦なこの長崎村に、一体どうしてそんなに幾つもの湧き水があったのか?…ということをです。
でもこの疑問は「広くて殆ど起伏の無い平坦な場所」に少しでも多く雨が降ると、そのあとで一体どういう事が起きるのかを、今の私たちがもう全然考えなくなっているからこその疑問なのです。
下水道というものが完備していない古い時代では、地面に滲み込む以上に降った雨は、ほんの少しでも低い場所に向かって一斉に流れ出すしかありません。長崎村の古い地形図を見ると、今より以上に土地に起伏のあったことが直ぐに分かります。それなりに山や谷があったのです。
少し高い所は「ヤマ」や「雑木山」と呼ばれ、低い部分は「窪」や「谷戸」と呼ばれていました。谷戸とは水場のことで、この長崎村のようなものを「谷戸集落」と言います。その低い場所が、雨の度に全部水没するのを防いでいたのが、周囲にあるクヌギの山や、多くの草木の保水力、畑、そして水田だった…という訳です。( 尤も一番低い場所は常に水路なのですけどもね )
降った雨の水は、こうした植物の持つ保水力のせいで、それらが植えてない場合よりもずっと多く土に滲み込むことが出来ました。( 実際には土が…ではなく植物の根や茎が‥ですが )
そうして滲み込んだ水は、ほんの僅かの距離であってもとにかく透水層の土で濾過され、粘土層に遮られて行き場を失い、結局は、その直ぐ近くの「低い土地の裂け目」から、湧き水として流れ出すことになります。でもそのように一旦地中に滲み込んでから濾過され湧き出す水の方が、地表をそのまま流れて土や埃や汚物などと共に濁流となってしまう直接の雨水よりも、生活用水としてずっと優れているのは言う迄もありません。
長崎村では多分、見た目での湧水量の一番多かったのは、今の粟島神社の池( 湧き水 )だった…と思われますが、地形からすると「谷端川」や「そこに合流する小川」それ自体の中にも、きっと多くの湧き水が存在していたものと考えられます。
[ この意味からは、「源流」とは唯、その一番高い位置にたまたま噴き出した湧き水…というに過ぎないことが分かります。でもそんなに湧き出し難い一番高い所からとにかく噴き出してくれて、その分その川の全長を延ばしているのですから、「源流となった湧き水さんはやっばり偉い!」…という見方も出来ない訳ではないですネェ。( ^o^ ; ]
これらの事に一旦気付くと、川というものの「源流」概念についつい拘ってしまうのは、私たち人間の極めて皮相な観念でしかない…ということが分かってきます。その川の全体を支えているのは、その元々の川の「真只中にも噴き出しているだろう知られざる湧き水」と、そして「そこに流れ込む支流の湧き水すべて」との、その一切を集めたまさしく「その全体」…なのです。そしてその「湧き水の全体」とは、まさしくその流域全域に降った「雨の全体」こそが、その「母体」となっているのです。
つまり近くに山が在って、そこからやって来て噴き出している…というような「湧き水」なのでなければ、そして他の土地から流れ込んで来る大きな川や、地下の川からの水を汲み上げている…というのでなければ、その土地にある「湧き水」というのは、基本的に「その土地に降った雨」によってしか得られない…という訳です。当時の谷戸集落にとって、どれほど「雨」というものが重要だったのかが、本当にヒシヒシと分かって来ます。だからこその「弁天様信仰」なのであり、「粟島神社」なのであり、「奥多摩・御嶽神社への水乞い」や「群馬の榛名神社詣」だった訳です。
長崎村の人々は深刻な旱魃の際、わざわざ「奥多摩・御嶽神社」まで「七代の滝」の御神水を貰いに行き、長崎村までは歩いて帰り、その水で「雨乞い」の儀式をしていました。( 例1918年 )
そういう事は決して珍しい事ではなかった為、御嶽山には長崎村の水乞いの人たち専用の宿があり、原島さんという現地の世話人の方が居ました。こうした世話人を御師( おし )と呼びますが、色々な村からの御師の集まった麓の村を御師集落と呼びます。御嶽山の御師集落は今でも有って、長崎村の御師の原島家もまた健在です。
だから関東平野の如く「だだっ広い平地での湧き水」というのは、基本的に「大地からのオマケの恵み」なんかではなく、まさに「雨の恵み」にだけ依っていたのです。
広い範囲に降った雨は、そこが殆ど平地なら、どこにも流れ出さずにそこに溜まって滲み込むしかないので、そこに多少の起伏があって、その低い場所に水が地表からも地下からも集まって来れば、結局、そこがその地の水源になる…というのは、考えてみれば全く当然の事なのです。
この事が判ると、今のように土地の大部分をコンクリートやアスファルトで覆って、折角降った雨を殆ど生かそうともせず、まるで只のゴミか邪魔者のように、そのままドブへと流しこんで捨ててしまってる、現在の私たちの「何とも恩知らずかつ傲慢な」生活方法は、近い将来きっと水の神様に罰せられるのではないか…というような気がしてきます。雨水の大半を即座に下水管に流していれば、現在僅かに存在する湧き水だって、やがては全て消滅する…という事になります。建設業者にとっては、水( 湧き水 )に突き当たるというのは一番厄介な障害なので、今のように殆ど雨水が滲み込まないコンクリート大地こそが最善なのでしょうが、それでは自然から遠いのもまた事実です。
『 千川用水の話 』
長崎村では結局、この細々とした谷端川の水だけではとても足りなくて、1696年( 江戸時代の元禄9年 )に村まで延びた、千川用水( 千川上水とも呼ばれます )からの水を引くようになります。
今の千川用水は、既にその全体が地下に潜らされてしまって「千川通り」という道路になっています。
そしてその「千川通り」が、あの南長崎6丁目の「元スカイラーク今はJ's ガーデン( レストラン )」の前で突然直角に曲がってしまって、そのどちらの道もが共に「千川通り」と呼ばれる…という不思議さは、その元々の千川用水があそこでちょうど直角に曲がっていたからなのです。
( 元々はまともに繋がっていなかった「中野通りと千川通りを辛うじて結ぶ細い2本の連絡路」が、20年程前に統合拡張され、道の境界が消滅した為に、この場所で突然、道路の名前が変わる…という妙な事になりました。) 古い名前を残したい側と、機能優先側の鬩ぎあい…というか妥協の結果なワケです。
千川用水は江戸時代の中頃に作られたので、用水と言っても実際には自然の川と同じような光景でした。ケヤキや桜の並木、そしてススキや野ばらまで植えてる千川の土手には、キツネやタヌキ、そして川には大きなカワウソまでが棲み付いていて、時々人間を化かしていた…という、「昔の童話」か「となりのトトロ」の世界みたいな話が、この町に住む田島五郎さんという人によって伝えられています。
それは北原( 今の千早4丁目で「きたっぱら」と読みます )に住む桶屋の本橋半五郎さんという人が、千川の土手を歩いて家に帰る途中、北原橋( 今の千早高校前の北端辺り )の所で大きなカワウソに襲われてるムジナの子を助けます。
ムジナの子は半五郎さんにお礼を言って雑木山の方に帰って行きます ( 千早高校グラウンドから奥は当時小高い丘だったようです ) 。
しばらく経った日の真夜中、頼まれていた桶作りの仕事がなかなか進まなくて困っている半五郎さんの仕事場に、ムジナの子が訪ねてきて戸を叩きます。
半五郎さんが戸を開けると誰もいません。
戸を閉めて少しするとまた叩く音がします。
さては誰かの悪戯だな?と思って半五郎さんが勢いよく戸を開けると、あのムジナの子が勢い余って家の中に転がり込んできます。
半五郎さんが訊いてみると、ムジナの子はいつも雑木山から半五郎さんの家を見ていたらしく、今夜はいつまでも灯が付いているので何かあるのか?と思ってやって来た…と答えます。
半五郎さんが仕事場へ招き入れると、ムジナの子は一緒に仕事を手伝ってくれ、そのおかげで漸く桶が仕上がります。
半五郎さんはそのお礼にと、小さな桶をもう一つ作ってムジナの子に与えます。
ムジナの子は喜んでそれを貰って帰って行きます。
その後、ムジナの子はその桶に乗って、月夜の晩でも安全に千川で遊べるようになりました。
…という可愛らしいお話です。
これは「ちいさい桶」という題なのですが、内容としては「ムジナの恩返し」みたいな話です。
ムジナとはむろんタヌキの別名なのですが、タヌキはその危機に際して、人の脳にハッキリとした映像イメージを送り込む、強いテレパシー能力を持つらしいことが、最近では色々分かって来ていますので、昔の人たちのするこうした不思議な話を、頭から馬鹿にするのは多分間違っているでしょう。全部がそのまま本当ではなくても、何らかの事実があった…という可能性は十分にあります。
人間の直ぐ近くで暮らしている動物たち ( ペットはその最たるものですが ) は、完全に人間社会と切り離された正真正銘の野生生物とは全く異なった環境下にあるため、そうした動物たちは人間が動物たちのことを理解している以上に、人間のことをよく知っていて、それに適応しています。
野良猫やカラス、クマネズミを見て下さい。まさにそうですよね? 人間はそうした動物のことを良く知らなくても生きてゆくのに困りませんが、動物の方は人間の事を良く知らないと上手く生きてゆけないからです。
だから、それを生まれた時からずっとやってる、つまり事実上の「早期教育」で育った小さな動物たちが、人間のことを一体どれぐらい詳しく知ってるかを想像すると、空恐ろしくなってきます。
もしタヌキに口が利けたとすると( 或いは、口を利いた…と人間が思い込むようなイメージをテレパシーで送り込むことが出来たのだとすると )、このタヌキの子がこの話の程度の事を半五郎さんに伝えたとしても、別にそれほど不思議なことではないでしょう。
これは逆に、この半五郎さん自身が潜在的に、今で言うところのアニマル・コミュニケーター ( ジョイス・リークさんや野生のティッピみたいな ) 能力の持主だった…ということも大いに考えられます。
実際のアニマルコミュニケーターと動物たちとのコミュニケーションは、一種のイメージ・テレパシーによるもの…というところまでは既に判ってますので、人間と動物はその方法でなら、或る程度の会話をする事が出来ます。むろん会話と言っても、それは言葉によるものではありませんし、能力差もありますが、とにかくコミュニケーションを取れることは確かなのです。
もしそうでなかったら、人間はそもそもペットを飼える筈がありません。あれは少なくとも人間の言うことに動物が応えられるからこそ可能なのです。
それはしばしば一方通行ですが、そうでない場合も勿論あり、それが完全に双方向になれば、人間と動物は十分に意志疎通が出来る…ということになります。犬を見れば大抵はそうだと思いますよね? 猫や馬にだってそんな風に出来る人は多分いっぱい居るでしょう。
人間側が、動物の発するイメージをどう解釈するかは、個人の能力差に影響されますが、少なくとも特定の能力者にはそれが軽々とできるのは確かです。実際にキャスリーン・ベラルドさんという驚異的な人だっています。彼女はまるで「ドリトル先生」のように、動物と話すことが出来ます。
歴史的にも、聖フランシスコ( 米国サンフランシスコ市の語源となった聖者 )の事例が有ります。
こうした事実を全く無視して「そんな馬鹿なことが…」という態度で全部を無視してしまうのは、「マックロクロスケを見た!」…と言うメイちゃんを直ぐにウソつき呼ばわりするのと同様、完全に間違っていると思います。( ← この例は適切じゃないだろ!…ってまた突っ込まれそ… )
ペットや烏みたいに、子供の時からずーっと人間社会と接して暮らしてる動物たちは、云わばみんな逆ターザン状態、或いは、逆「野生のティッピ」状態なのです。彼らは動物なのに「人間の国」で育ってしまった動物版「帰国子女」みたいなもので、人間の国のことをとても良く知ってます。人間は多分、動物たちのことを馬鹿にして「少しばかり見縊り過ぎて」います。( ペットを飼ってる人にはきっと、この事は良く分かるのではないでしょうか? ) 彼らは実は魔法をかけられて口が利けないだけの人間…だと思って日々接した方がよい…と言う人だっています。手話でなら人間と会話できるチンパンジー( ボノボ )や、人間と本当に意味の通る会話の出来るオウムが居る…という話もあります。
おっと、話が大分逸れてしまいましたね。もとい!
でも月夜の晩に小さな桶に乗って遊んでるムジナの子は、大きなカワウソにとって何の苦もなく捕まえられる絶好の獲物ではないのか?…とも、どうしても思ってしまうのですけどもネェ。
因みにこの話に出てくる半五郎さんというのは、この話の伝え手;田島五郎さんのお父さんの親しかった実在の人物だそうで、大正15年発行の住宅地図には、この半五郎さんの家が「本橋半五郎」として、ちゃんと載っています。( 上の地図にも載っていたので、図示しておきました。)
尚、長崎村の生き字引と言われてた田島五郎さんは2003年に亡くなられました。
御冥福をお祈りいたします。 合掌
さてさて、千川用水からの取水は、当時の谷端川の源流だった粟島神社よりもっと北の、今の千川交差点の辺りでされて、谷端川の通る谷戸へと大量の水が流し込まれました。
これによって谷端川の長さは上流に数百メートル程も延びましたが、この部分は厳密には千川用水で、谷端川の開始点とは言えないかも知れません。下流にはもちろん途轍もなく延びて、もはや「ワジ( 雨の降った時だけの川 )」ではなく「定常的な川」に昇格した谷端川は、巣鴨・板橋を越えて大江戸八百八町へと入り、遂には神田川にまで届きます。
この取水によって、それまでは湧き水の流れ出す小川沿いでだけ極く僅かに作られていた長崎村の水田は、一気に何倍もの面積にと拡がりました。それが先程の図の、緑色の外側の「水色の部分」にあたります。もちろん収穫量は一気に上がりました。
『 葛ヶ谷分水の話 』
千川用水からの取水口は、実はもう1つあって「葛ヶ谷( くずがや )分水」と呼ばれていました。
籾山牧場の西側には妙正寺川の支流となる小さな湧き水があって、葛ヶ谷村( 現在の新宿区西落合 )はその谷戸集落でした。
因みに、ここには「猫のお地蔵さん」で知られる真言宗のお寺「自性院( じしょういん )」があって、前述の「慶徳屋」の立派なお墓もあります。
「葛ヶ谷分水」はこの村への取水口です。件の清戸道を挟んだその北側は「ヤマ」と呼ばれ高くなっていたようで、西落合は現在でも南側の低い傾斜地です。五郎窪の端のこの場所に湧き水の出る条件は十分に揃ってました。( 中野通りと千川通りが今のように繋がる以前、この場所には畳8帖ほどの湧き水の池があって、そこに「西原不動尊」が置かれていたそうです。)
葛ヶ谷分水によってこの南側にも広い水田地帯が出来ましたが、長崎村の土地は籾山牧場の直ぐ南側まででしかなかったので、葛ヶ谷の最上流にほんの少し水田を増やせたこと以外には、余り恩恵を受けることが出来ませんでした。
でもこの取水によって南隣りの葛ヶ谷村の人たちは、とても助かったのでしょうね。
因みにこの千川用水は、中央線「武蔵境駅」の北側にある「境橋」という場所で玉川上水から分流取水された高架用水( 土手を高くした人工河川 )で、「上井草駅」を通って南田中( 高野台 )、中村橋、練馬、桜台、江古田、…と来て、長崎村の前述の場所で90度北にと折れていました。( もっと詳しく分かるページは、右のメニュー内にあります )
千川用水は当初、「玉川上水」と共に江戸を潤す「生活用水」としても使われていました。
が、「こうした人工河川の多用が江戸の地脈を乱し、江戸の火災多発の原因になっている」…という奇妙な学説を江戸幕府が信じ込んだ為に、開通からたったの数十年で「生活用水としての使用」は止まり、以後はただ農業用水としてだけ利用されました。[ この当初の使用目的故に、古い時代での呼称「千川上水( 汚してはならない上水の意味 )」が残っているもの…と思われます。]
その元々の「玉川上水」の方は、「羽村…あの工藤静香の生まれ育った町です( 笑 )…」の取水口で多摩川から分流され、「拝島駅」を通って立川市・小平市を抜け、小金井の「江戸東京たてもの園」と「スタジオ・ジブリ」本社の間を擦り抜け、三鷹の森「ジブリ美術館」の直ぐ側を通って、甲州街道沿いに東に向かい、新宿御苑の「大木戸門」( 四谷4丁目サンミュージックの近く )にまで至る長大なものでした。( 何だろかこのミーハーな説明… )
「多摩川」の源流地帯は、むろん奥多摩の「御嶽山」です。だから長崎村の人々の御嶽山への「水乞い」行脚は、論理的にも合点のゆく話…だということになります。
そしてまた、東京都全体の形が、この奥多摩源流地帯を含めた奇妙に細長いものである理由は、言わずもがな「水利権行政」ゆえのことだったのです。
【 その他の情報 】
練馬大根…というのは実は練馬ではなく、元々は豊島郡「長崎村」の特産物だった。
( 因みに桜の「ソメイヨシノ」種は豊島区駒込の植木屋「染井」氏の作り出したもの )
東京府北豊島郡長崎村 …という昭和初期の呼び名
大正4年 武蔵野鉄道( 西武池袋線 )「東長崎駅」開設 ( 椎名町駅の開設はその9年後 )
大正7年 今の東長崎駅北口の西側( 旧ファミリーマートからその背後の自転車置き場、キャンドウ、東急ストア、その背後のマンション、スポーツクラブのある一帯 )には、この頃日産自動車の前身である「快進社」の工場が移転してきました。
ここで作られた車こそが日本の国産車の第1号でした。( トヨタではなかったのですねぇ )
「脱兎の如く走る車を」ということで「ダットサン」のブランドが使われたのだそうです。
この1年後の大正8年5月にはバス会社「ダット自動車」が設立され、目白ー豊島園間を走りました。もちろん「東長崎」と「練馬」経由です。
下落合の歴史に凄く詳しいお隣りの「わたしの落合町史」さんからの情報によると、今のより全然ちいさなバスなのに、1日に1700人以上もの利用者があったようです。詳しくはこちらへ。
ダットサンの従業員の落とす飲食費などで、東長崎は大いに繁盛しました。
大正11年 耕地整理開始 ( この最初期に行った耕地整理は全国の手本となったそうで、長崎村の人たちの進取の気性が読み取れます。
大正12年 関東大震災 ( まだ農村だった長崎村には然程の被害がありませんでした。)
大正13年 武蔵野鉄道( 西武池袋線 )「椎名町駅」開設
富士元囃子とその創始者である造園師/農家? 本橋重太郎さん
高松2丁目にある豊島長崎の富士塚 ( 当時、富士山を信仰する「富士講」というものが日本中至る所にあり、実際に本物の富士山に登れない人たちの為に、富士山の溶岩を大量に運んで地元に小さな富士山のひな形を造る…という事が良く行われていました。前述の「おとめ山」東肩もそうですが、ここ高松町の富士塚は手入れが良いので国の文化財指定を受けています )
五穀豊穰 悪疫退散 の獅子舞 5月第二日曜 9月第二日曜の大祭 ( 相当有名です )
慶徳屋 [ 自性院( 猫寺 )に立派な墓有り]
平岡望見 「ちいさな桶」の挿絵を描いた版画作家の人です。
岩崎潅園( 常正 )
御嶽山に在る長崎村の水乞い時の宿房であり介添人の原島御師( 原島家 )
長崎アトリエ村
自由学園と羽仁もと子
女学校卒業生 岸田今日子 オノ・ヨーコ
他に 山本直純 羽仁進 日下公人
☆・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆ 【 余談・ゆかりの有名人は町の華 】 ・。・゜★・。・。☆・゜・。・゜。・。・゜★・。・。☆
【 長嶋茂雄の居た立教グラウンド 】
東長崎駅北口には長崎十字会という商店街があります。
この商店街の北の突き当たり、現在千早高校 ( 旧牛込商業高校 ) の有る場所には、かつて立教大グラウンドがあって、毎日沢山の人だかりがしていました。
そこには当時、あの立教大・長嶋茂雄が居たのです。
昭和30年代の始め頃、東長崎駅北口から電車に乗り込む長島を、実際に見た人がいます。
そのミスターが当時、どんなに凄くてしかも面白い ( だからこそスターな ) 存在だったかを知らない人は、どうぞこちらをご覧くださいませ。( 笑 )
【 本田宗一郎の靴屋さん 】
駅の南口を出て直ぐ右に曲がるとマクドナルドがありますが、その少し先の右側「山田靴店」は、あの「本田宗一郎」がずっと靴を直しに出していた腕のいい職人さんのお店です。
【 山下達郎が店番をしてたお店 】
そのもう一寸先の小さなレコード屋さん ( CDショップだってばさっ )「日新堂」は、何を隠そうまだ無名だった頃の山下達郎が、店番のアルバイトをしてたお店です。
きっともうその頃から沢山の曲を書きためていたのでしょうね?
【 山口百恵が生まれた家 】
その手前の角、持ち帰り寿司「伊勢屋」を右に折れた路地の突き当たり、線路際にある古い木造アパート「富士見荘」は、あの山口百恵の生まれた家です。彼女がお母さんと横須賀の瀬谷に移り住むのはその後の話です。
むろん実際に彼女の生まれた場所は「西武診療所」という名前の病院でしたが、西武診療所は先程の「山田靴店」前の路地を入って直ぐの左側、現在「橋本クリニック」の在る建物の全体でした。あの大きな地下駐車場は病院故のものだったのですね。
( 下の写真をクリックすると更に詳しい紹介ページに跳びますよ。)
…そして勿論、【 トキワ荘 】
旧・落合電話局の正面に在った「トキワ荘」は、もはや裏口だった路地のわきに小さな記念プレートしか残っていませんが…
ここに手塚治虫、寺田ヒロオ、石森章太郎 ( 石ノ森になるのはその後のことです ) 、藤子不二雄、赤塚不二夫、鈴木伸一 ( 小池さんのモデル ) などの後期新漫画党 ( 後のスタジオゼロ ) メンバー、そして少女マンガの大御所・水野英子女史 ( 白いトロイカなど ) までが棲んでいたことは有名な話です。
石森・水野・赤塚の3人は「U・マイア」の名で「くらやみの天使」なども合作してました。( 後に石森・藤子・鈴木は「風田朗」のペンネームで「レインボー戦隊ロビン」を合作しています。)
この時代のメンバー全員が寄せ書きしたカーテンを、何故か蒐集家の北原照久氏が持っています。( こんな風に紹介してるんですから、もっと大きな画像でアップして呉れれば良いのに…とか思ってしまいますよネェ? )
当時、つのだじろうや貝塚ひろし、それから少女クラブの編集の丸山昭氏などは、家賃も払ってないのに毎日トキワ荘に居た…と言われています。お金の無いマンガ家たちは彼らからも家賃を取るべきでしたよね? あ…そうだ、ちばてつやも時々来てたみたいですよ。 ( 当時のトキワ荘というのはこんな感じだったようです。でもこれは本物ではなく、宮城県石巻市『 石ノ森萬画館 』所蔵 水野英子/監修、芳賀一洋/制作の精巧なジオラマです )
【 サイバラ 】
最近も少し前まで漫画家の西原理恵子 ( サイバラリエコと読みます。「ぼくんち」という作品などでスゴク有名な方です ) がやはりこの町に住んでいたようです。
彼女の作品には「東長崎」が良く出て来ていたので、この町はサイバラファンには結構知られてます。
が、残念ながら私は彼女が何処に住んでたのか知りません。一体何処に居たんデショ?
( なお以上の方々は余りにも有名なので敬称を略させて頂いてます。)
【 東長崎機関 】
★ 余り知られてませんが、現在の東長崎には有望な「フリーのジャーナリスト」が数多く棲んでる様子です。一般的に言って後に名を成す人たちというのは、トキワ荘の面々でもそうですが、その棲んでる当時の近隣では「一体何をしてるのか分からない唯の貧乏人」にしか見えないもののようです。なのでもし見付けたら今の内にせめてサインぐらいは貰っておいた方がよいかもしれませんね。( 今に「なんでも鑑定団」で大変な値段がつくことになるかも知れませんよお?)
何しろその名も「東長崎機関」…という、何やら恐ろしげな彼らの『民間諜報組織 』の根城が、この町にはあるんですから。( 笑 )
諜報機関なのにも拘わらず、開けっぴろげにも「同名のホームページ」を Web に開設していて、東長崎北側の「せきざわ」や南口の「福しん」などでのその「秘密の活動内容」が開示されてるようです。( このページの右の緑色のメニューの中にも「東長崎機関」の入口がありますから探してみて下さい。)
東長崎機関の掲示板は最近荒らされ放題なのでどうも放置状態のようですが、東長崎機関のボスやメンバーはあのチェチェンやイラクの戦場などにもフツーに出掛けて行ってしまう果敢な人たちですから、バカにしちゃあ駄目です。それにここのサイトは、きっともう公安調査庁なんかにもしっかり見張られてるのに違いありません。( ^o^ ;
かくして今の東長崎は、マンガ家ならぬ「独立系ジャーナリストの梁山泊( =トキワ荘 )」時代なのかも知れませんネェ。
あの「田中ニュース」で有名な田中宇も、メンバーでは無いけどこことは親交があるようです。
【 豊島区は創作エナジーの場かな? 】
昔のアトリエ村といい、トキワ荘といい、このフリー・ジャーナリストたちのトキワ荘( 実際の名は松美荘 )といい、長崎村にはそうしたエネルギッシュな時期の貧乏なクリエイター ( 芸術家 ) たちを引き寄せて結集する「重力か磁力」のようなものが有る場所なのかも知れません。
考えてみれば長崎村の隣りの雑司が谷村も大正時代の童話雑誌「赤い鳥」の拠点で、沢山の作家が集まっていました。またその南側の下落合には同時期に200人近い画家がアトリエを構えており、池袋モンパルナスと共に一大芸術家地帯を形成してました。そして中落合の目白文化村には、人気絶頂時の李香蘭 ( 山口淑子 ) の自宅までがあったようです。この辺の詳しい話は右メニュー内にある「わたしの落合町誌」さんのサイトをご覧下さい。
( 余談の余談ですけど、大正時代と言えば岐阜県恵那市明智町という処に、大正時代の日本を保存した「日本大正村」というテーマパークがあるのって知ってます? 実はいま見付けたんですけどもね。いま読んだらこの明智町という地名は明智光秀由来だそうな。面白そうだけどちょっと遠いかな… )
【 石ノ森章太郎のお墓 】
亡くなった石ノ森章太郎は今もトキワ荘に程近い祥雲寺 ( 要町 ) に居て、この町を見守っているようです。お墓はここです。( 実は昔々、石森先生は筆者の師匠で、筆者は先生の家に勝手に住み着いた押し掛け弟子でした。筆者はてっきり、先生はトキワ荘時代に急逝されたお姉さん ( 小野寺由恵さん ) と一緒のお墓に入られたのだろう…とばかり勝手に思い込んでいましたが、問い合わせてみた処どうやらそれは違ったようです。石森先生のお姉さんは、トキワ荘の吉永小百合とかマドンナと呼ばれていたとても綺麗な方で、「龍神沼」など初期の石森作品の素敵なヒロインは皆、このお姉さんがモデルとも言われています。合掌 )
▲ 因みにこちらは、同じ豊島区の「総禅寺」( 巣鴨5丁目 )にある「手塚治虫」のお墓です。よーく見ると重厚な墓石の表には… 目を凝らしても分からなければ一度位お墓参りもしてみましょう。 みんな随分とお世話になった方ですものネ。
この同じ巣鴨5丁目の「本妙寺」には、江戸の歌舞伎や芝居小屋を保護したことで有名な遠山左衛門尉景元 ( 遠山の金さん ) のお墓が…。( いま上の「大正村」のサイトを見て初めて分かったんですが、この人と明智光秀が実は親戚だなんて全然知りませんでした )
えーと、ついでに言うなら夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲、竹久夢二、羽仁もと子、荻野吟子、それから幕末のジョン万次郎と小栗上野介 ( 徳川埋蔵金を隠しちゃった人 ) なんかのお墓も、池袋の「雑司が谷霊園」に全〜部あります。( 以上ぜ 〜 んぶ豊島区内です )
豊島区って、もしかすると芸術を育てる揺り筺のような「気」の出ている場所なのかも知れませんよねえ? ( ← なら埋蔵金は関係ないだろっ! …てまた三村に突っ込まれソ )
おっと、最後になって話がいきなり長崎村から豊島区全体にまで拡がってしまいました。
余談だからまっいっか…とか思って…ハハ… ( ^ ^ ;
でわでわ…
『 参考文献 』
豊島区立郷土資料館 発行 「長崎村物語」
( 本文中の5点の絵地図は、上記から引用しました )
おしまい
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ブラックホールは恐らく存在しない もしあっても周囲に重力を及ぼすことなどできない ブラックホールについて考えたことを全部公開する
光子にも質量がある事を証明する為の最も簡単な実験方法 / 光および c 粒子群 ( 真空中での光速度粒子群 ) はすべて相対論の適用対象外である
日本政府と警察と都道府県全知事への公開状 「 プライバシーを保全しつつ凶悪犯罪を 90 % 以上減らす完全な防犯監視カメラシステムの提案 」
株式投資とは何か ? / 株式投資という非事業投資 / 株式市場とは 実質 株価賭博 市場 に過ぎない ( うっかり NISA を始める前に … )
911テロ旅客機が捏造 CG である完全な証拠と証明 / 主要な911WTC突入映像全ての飛行機とその突入の仕方が C G であると証明可能である
その英語版 Perfect Evidence Of The 9/11 Terror Attack Plane Being Fake CGI And Demonstration Of It
完全粉砕される 「 F4 ファントム機の壁面激突映像 」 が少しも 「 911 旅客機 CG 説の反証 」 になっていない理由
天皇への公開状 「 今上天皇への、平和憲法を守りたい一国民からのお願い 」
月面ティコの直角構造月面都市群のグーグルムーンでの存在証明をここに!
T M A チコ 直角構造都市群 Special Selection 100 ( 自動レベル調整版 )
月面ティコクレーターの完全探査 1600 シーン
グーグル・ムーンで 「 かぐや 高解像度月面画像 モスクワの海 」 から異星人基地らしき光り輝く構造物を見付ける方法の説明スライド
かぐや 高解像度月面画像中に見付かる異星人施設らしき光る構造物群のスライド捜索ツアー
月面表側の異星人施設群 Part 1
月面表側の異星人施設群 Part 2
キュリオシティ UFO 写真 6 枚は火星上空に静止衛星群と宇宙エレベーターまでもが存在する事の明確な証拠である
火星の夜空の実態 但しこれは 300 倍の高速表示ゆえ、実際には 10 〜 16 分間の火星の空である
今や誰でも確認出来る まるでアリの巣のような宇宙人の火星基地とその入口の実態
6枚組 UFO 画像がフォボスの長時間露光写真 …という説が完全に誤りだと証明しよう
それから 6 日後の 5 月 4 日の棒状光体 UFO 組画像は NASA によって上下反転されてる
UFO懐疑論者とは UFO否定説ばかりを簡単に信じ込む逆方向のビリーバーである
逆説的 超能力 論考 手品師ダイゴの華麗なフォーク曲げは、それが本当にトリックだとは全然証明されていない
NHK 幻解 ニューヨーク上空 UFO = 風船 という説明の大ウソ
NHK 幻解 ポポカテペトル UFO はヘリコプター …というウソとゴマカシを暴く / 火口から半径 20 km 以内は飛行禁止区域である
恐竜の現在の想像図と大恐竜絶滅の謎を解く / 地表世界は超古代からずっと宇宙人の生物実験場である 私たちは実験生物である
大ピラミッドを建造するいちばん簡単な方法 ジャン・ピエール・ウーダン説の更なる拡張
やはり北大西洋中央海嶺上に位置するアゾレス諸島こそが沈んだアトランティスの名残りである
南極海ブーベ島西方200kmの海底遺構
大西洋マデイラ島の西南西に見付かる矩形の水没都市遺構と5本の平行線地形
確率を適用して良いのはただ統計的集合体に対してのみである
その付録 マキタスポーツのヒット曲分析で作られた曲は一体何故、大ヒットしなかったのか?
アニマルライツセンター 代表理事 岡田千尋さんへの公開状 / 風の谷のナウシカのようなお気持ちは良く分かるのですが … / アニマル コミュニケーターとこそ共闘すべきでは …
映画 「 ザ・コーヴ 」 を見て / リック・オバリーは正しく シーシェパードは断じてテロリストにあらず ( その明確な証明を此処に提示しておく )
インターネット活用選挙運動は元々自由である / 禁止法も無かったのにワザワザ解禁を議論する臆病な日本社会 ( 官僚依存国家 ) の愚
高過ぎる電気料金を課して、自分たちの給与とボーナスだけを先に災害復興させてしまった東京電力の重い罪
自転車が歩道を走れてしまう現行道路交通法こそが、危険な運転と人身事故多発の原因である
アダム ・ヴァイスハウプトはジョージ・ワシントンと同一人物では有り得ない