( 物理 ) ( 2014.2.28. 記 )
空間量子 λ の論理的導入方法 ( 空間を量子化せざる得ない数学的かつ哲学的理由 )
空間量子の実在は、ゼノンの 「 アキレスの議論 ( アキレスと亀 ) 」 が 明確に示唆していた。
アキレスと亀のパラドックスこそは、空間の最小単位 λ が実際に存在しなければならない事の、明確な証明である。
Copyright 2014.2.28. by うつぎれい
● アキレスの議論 とは …
俊足の英雄アキレスが、足の遅い亀と競争するにあたり、余裕に任せてワザと亀を先に行かせる。
しかしアキレスが亀を追って走り出し、アキレスの出発時に亀の到達していた場所にまで達っすると、亀は少しだけ前に進んでいる。
次に、その少しだけ進んだ亀を追ってアキレスが更に走り続けても、再び同じ事が起きる。
これが繰り返されると、確かにアキレスは亀にどんどん近付いてゆくものの、何度繰り返しても亀はいつも少しだけアキレスの前方に居て、アキレスは亀に追い着けない理屈になる。
… という有名なパラドックス ( 逆説 ) である。
多くの人はこれを聞くと、理屈はその通りだが何処かが変だと感じる。
足の速いアキレスが亀を追い抜けないなんてワケがないのに、理屈ではそうなってしまうから、逆説にペテンや手品の如く気味悪さを感じ、人によっては理屈 ( 論理的思考 ) そのものを毛嫌いしたり信じたくなくなってしまう。
聞いた人が古い時代の哲学者や数学者だと、この何とも厄介な逆説に頭を抱え込む。
さもありなん。 ゼノンのこのパラドックスは 19 世紀になるまでは曲がりなりにも対処することが難しかったのである。
このような論法は、それが 「 亀がアキレスに追い着かれるその決定的瞬間までは記述しない 」 という論理的なトリックによって成り立ってる … とも言える。
つまり上のような議論の仕方では、アキレスが亀に追い着く決定的な瞬間は実際には有限時間内であるにも拘わらず、その手順の方が無限回分も必要となって、記述のしようが無くなるからだ。
その論理上のトリックは全く逆の視点で考えてみると直ぐに崩壊する。
つまり、アキレスが亀に追い着いて追い抜くのに必要な時間が十分に経った後での、両者が何処に居るのかを考えてみれば、アキレスが亀より前方に居るのは絶対に間違いないからである。
ゼノンの論法はその決定的瞬間より以前に聴き手の想像力を閉じ込めてしまい、顕微鏡的な議論へと引き摺り込んで聴き手に錯覚を起こさせてるだけだ … と悪口を言うことも出来る。
ゼノンの論法が正しいのはアキレスが亀に追い着く直前までの 「 ミクロ論理 」 としてであり、常識的な見方というのは競技の結末までを俯瞰した 「 マクロ論理 」 であり、そして 「 現実 」 の事象は “ 後者の見方 = マクロ論理が正しい ” ことを証明してるように見える。
しかし一つだけ疑問が残る。
こうした見方の違いによって、同一事象に対する “ それぞれは論理的 ” である筈のミクロとマクロな論理記述が、一見すると真っ向から対立する結論を導き出してしまうのは、一体何故だろう?
そこには何か重大な見落とし ( 理由 ) が存在する筈である。
巨視的に見るとアキレスが追い着き・追い抜くのは当たり前の事なのに、微視的に見ると一体どうしてアキレスは亀に追い着けない … という奇妙な理屈になり得るのだろう?
それは、微視的な考察に於ける我々の論理そのものに何か重大な欠陥が有る … ということの兆候なのではないだろうか?
まさしくその通り。 そうなのである。
実はこの問題には、数学に特有な “ 或る非現実的な先入観 ” が深く関わっており、その先入観に拘泥してる限り 「 問題 」 は絶対に解けない。
だから、勿体振ったりはせずに、いきなり答から入ろう。
● 答 ; 実際には空間の最小単位 ( 空間量子 λ ) が存在している為に、無限小の距離を仮定してアキレスがどこまでも追い着けない … とするゼノンの議論は根本で間違っており、現存する断片中でエピクロスも 「 原子的空間 」 の名で言及しているような、云わば哲学原理的に存在しなければならない筈の 「 空間量子 」 の実在こそが、ミクロスコピックな議論とマクロスコピックな議論の間にある矛盾を、完全に解消して整合させうる唯一無二の正答である。
[ つまり、際限なく微視的な議論に聴衆を閉じ込めることで成立してるアキレスの議論は、“ 空間は何処までも無限に分割可能 ” という ( 自明なようでいて実は全く無根拠の ) 仮定に拠ってだけ成立していたのである。 ]
現実の物理世界が実際に連続ではない … ということに人類はもうとっくに気付いてる筈である。
少なくとも分子や原子が発見されて、物質がそれ以上分割すればもう当の物質ではなくなる最低単位以上の大きさでしか存在し得ない、とは理解出来ている。
その認識上の衝撃から、巨視的世界の論理はそのまま微視的世界には通用しない … という事を科学は受け入れて、20世紀の始めに量子力学が誕生したのだ。
( 今日の分子の意味であった最古の原子論は、既に古代ギリシャ時代にデモクリトスやエピクロスが喝破し、唱えていたのは言わずもがなである。 )
が、そうして今の時代に至っても未だ、この世界の数学者や理論物理学者の多くは、空間については、日常的・巨視的な空間体験から抽出したに過ぎない ( 巨視的空間でしか定かでない ) 空間論理を、「 限りなく微細な空間 」 を記述するにもそのまま適用可能で妥当なものと考え続けて来た。
いったいどうして? 物質界・物理世界はそうではない … というのに、空間だけは無限に分割可能である … と妄信し続けていられるのだろう?
この妄信には恐らくプラトンの数学イデア論と、ニュートンやライプニッツの微積分と、解析学の基礎と見做されるコーシーの収束条件と、そしてそれらを未だに信じ込み続けてる数学者や理論物理学者たち自身に、最大の責任がある。
彼らは 「 数学は現実世界に支配されないイデアの世界の論理である 」 として数学を特別扱いし、甘やかして、それが現実世界から遊離したままなのを放置し、一方でソレに依存し続けて来た。
そして余りにも依存し切ってるが故に、現実の物理世界が 「 連続 」 ではなく 「 不連続でバラバラ 」 なものである … と分かって来た後にも、解析学や集合論の基礎的概念である 「 無限小 」 や 「 無限分割 」 という非現実的な概念を 「 捨ててそこから離脱 」 することが出来ないままで来た。
もし空間が無限には分割出来ず、無限小の距離などというものは存在せず、空間が空間として存在しうる最小単位の大きさ ( 容積 ) があって、それ以下の距離が存在しないなら、ゼノンの論法は破綻し、その理屈の途中で ( 最小単位分のリード距離にも達していないが故に ) 亀はその最後に達した空間単位内で頭の先端が止まらざるを得なくなり、その身動き出来なくなった亀にアキレスが易々と追い着き・追い抜いて行ける … という理屈になるから、ミクロな視点とマクロな視点での記述は、共に現実の事象とも一致し、この問題でのパラドックスは完全に消滅するのである。
数学 ( 数学基礎論・幾何学・解析学・無限集合論 ) は但し、大きな変革を迫られること必至となる。
だから無論、このような主張も、主張する筆者自身も、きっと世界中から無視されるに違いない。
併し改めてよーく考えてみて欲しい。
いったい “ 空間が無限に分割出来る ” という考え方には、巨視的な空間の性質が日常的な私たちの生活経験において、マクロには確かに空間とはそのようなものに見える … という以外に、「 それが絶対的に正しい認識だ 」 という如何なる客観的な根拠があるのだろう?
微積分の計算結果が如何にも正確なモノのように見える … というのは十分な根拠にはならない。
( 差分方程式や和分方程式によってもほぼ同じ計算結果は導き出せるし、コンピュータに無限は扱えないから、実際にコンピュータの計算結果は微積分ではなく、差分や和分での近似である。 )
大体、距離を計るべく物質そのものの大きさに下限があってそれ以下の大きさではその物質ではなくなるというのに、元々は巨視的な空間の大きさを物差し等の物質の大きさに依拠して計ることで空間の大きさを認識し、性質を理解してきた人間の知性が、その巨視的レベルでの空間の特性を微視的レベルにまで勝手に外挿して適用してきた … というだけの 「 ミクロなそれも無限小の空間についての数学的理解 」 が、「 この現実の物理世界の本当に正しい説明 」 として妥当性があるなどと、一体どうして人類は確信していられるのだろうか?
例えば量子力学では無限小は厄介者であって、電子や陽子や中性子といった素粒子を計算し易く数学的な点であると考えてきた為に、素粒子の自己エネルギーや質量や電荷等が共に無限大となってしまう 「 発散の困難 」 という問題や、もし本当に素粒子が数学的な ( 大きさを持たない ) 点粒子であるなら、その悉くがシュワルツシルド限界内となってブラックホールということになってしまいかねない … という、全く馬鹿げた理屈と悪戦苦闘しなければならなくなっているのである。
総合的に考えるなら 「 無限小 」 や 「 無限分割可能 」 という “ 数学と数学者の暴走 ” は、人類の陥ってきた、数学と理論物理学上の最大の誤謬であると考えられる。
数学と理論物理学が、筆者の主張・提案と筆者自身を完全に無視するのは簡単であろうが、そうする事で人類は重要な真実に気付かずにいつづけることになるのである。
尚、 別論文 『 重力 = 宇宙の膨張である ( 万有引力定数 G と重力方程式の物理次元に含まれる驚くべき宇宙の真相 ) 』 に於いて 「 宇宙全体の質量1kg あたり、1秒あたり 6.67384 × 10-11 m3 の増殖加速度 ( “増殖する速度”そのものが、毎秒、それだけ速まりつつある ) で増加する 「 3次元空間 」 と述べたモノは、言うまでもなく此処に提唱した 「 量子化された空間の最小単位 ; 空間量子 λ 」 単位での 「 3次元空間 」 を意味しており、その増殖・増加とは この「 空間量子 λ 」 が、毎秒その増殖加速度で宇宙空間に新たに付け加わり続けている … ということを指すものである。
以上
● この論文に記した発見についての覚え書き ( 文中、敬称略 )
素領域理論との関係
かつて湯川秀樹は素領域 ( 素領域理論 ) というものを提唱していた。
その導入の為の哲学的論理は特に示されていなかった。
湯川の素領域は必ずしも空間の最低単位 ( 空間量子 ) の意味では無かったと記憶するが、少なくとも数学的点粒子ではどうにもならないから、粒子に何らかの大きさは与えられるべき … という湯川自身による説明を、岩波新書の 「 素粒子 」 という本の中で遠い昔に読んだ記憶がある。
上に記した 「 空間量子導入論理 」 を筆者が着想したのは 1969 年 9 月であったが、その頃、既に湯川の素領域概念の提唱については、上記の本や NHK での対談番組を見て知っていた。
ただ、「 発散の困難を解決すべく素領域を導入する 」 … という理由には、やや恣意的な印象を受け ( 本来的・原理的な空間量子化の為の論拠が欠けていると感じ ) ていた。
故に上のゼノンのパラドックスへの唯一無二の整合的な解決論理としての、より原理的な空間の量子化提案こそが、素領域理論の拠って立つ基盤にもなり、また空間量子が絶対的に存在しなければならないことの十分な論拠となる … と考えて論を纏めていった。
最初に手書きの論文としてそれを纏めたのは 1970 年 6 月、その論文のコピーを携えて鈍行の夜行列車で京都下鴨の湯川秀樹邸を訪ねたのが同年 8 月、東大の西島和彦の研究室を飛び込みで訪ねたのは同年 9 月のことだった。
しかし湯川邸では 「 先生はご病気だから会うことは叶わない」 とあっさりと書生に門前払いを喰らい、論文のコピーさえ受け取っては貰えず、その日の夜にはスゴスゴと帰京するしかなかった。
西島和彦とは、西島研究室にいた助手の学生たちの執り成しで、何とか直接面会する事が出来た。
手渡した論文コピーには目を通すこともなく、内容を簡単に口頭で説明するようにと求められ、説明したところ 「 この問題は既にイプシロン・デルタ・ガンマ理論で決着がついている。だから空間の量子化はこの為には特に必要ないと思います 」 と一蹴され、手渡した論文もその場で返されてしまい、これまた拍子抜けの体で終わってしまった。
この頃の筆者にはまだイプシロン・デルタ・ガンマ理論 ( ε‐δ 論法とも呼ばれる ) がコーシーの収束条件の別名とは分かってなかったので、帰り道に立ち寄った大書店で、岩波の数学事典を引いてみるまでは、本来なら自分にも十分出来た筈の反論をあっさり封じられてしまっていただけだとは咄嗟に気付けなかった。
が、当時の筆者にはそれが判った時点で再び西島研究室にまで取って返す程の気力もなかった。
… というワケで、つまりこの論文は、その時の論文の内容の今更ながらの書き直しなのだが、当時の手書き論文は結局その後、現在まで印刷される事もないまま、筆者の手元で 44 年間も眠っていただけなので、この内容を広く世に問うのは、事実上このインターネット公開が最初である。
以下は、推敲の結果ボツとなった部分であるが、全く意味のない文章や考え … というワケでもないので、紙巾を考えずに何でも残しておけるというインターネットの利点を活かして、末尾に添付してこのまま残しておくことにする。
ゼノンの有名なこのパラドックスは、数学の授業に於いては無限級数の問題となる。
そしてアキレスが先に出発した亀に追い着けるかどうかは、その無限級数の解が一定の値に収斂するか否かの問題である。
結局それは、イプシロン・デルタ・ガンマ理論とも呼ばれる 「 コーシーの収束条件 」 を当の級数が満たせるなら、パラドックスは克服され、アキレスは亀に追い着ける … という完全に手続的な理屈になった。
[ この理屈はむろん正しいのだが、この原理的な難問をコーシーの収束条件という何ともスッキリしない曖昧な方法 ( 一般には厳密な方法と考えられているが ) で切り抜けてしまったことによって、数学も物理学も大切な本当の答を見落とす結果になったのである。 ]
「 アキレスは本当に亀に追い着けるのか? 」 という長い間決着しなかった難問は、コーシー以来、戯れ言に等しいと見做されるようになり、それは簡単な哲学的誤謬の類いであって、数学的にはもうとっくに全部が決着してしまってる … かのような雰囲気となってしまっている。
つまり 「 逆説 」 というのは、論理を巧妙にあやつるとトンデモなく非論理的な結論をも紡ぎ出しかねない 「 間違った仇花論理 」 である … という通念が蔓延ってしまってるのである。
( そのことの何よりの証拠は、このアキレスの議論への本当に正しい反論に出合ったことは、これまで唯の一度も無かったことである。 )
併し、そのような認識は本当は間違っていて、「 逆説 」 とはその展開されている論理の前提自体に何か重大な間違いが有る … ということを暴き出す、拡大鏡の如く哲学的論理ツールなのである。
ゼノンは 「 アキレスの議論 」 で常に、アキレスが 「 追い着けるであろう瞬間に亀が居るだろう位置 」 に向かってではなく、「 追い掛け始める瞬間に亀が居た位置 ( つまり亀が引っ越す前の元居た場所 ) 」 を目掛けてのみ走る … かのように記述してるので、それはちょうど後手後手に回るドジな探偵や刑事が犯人を何時までも捕まえられないのと同じで、「 最初から脱け殻となった空家にばかり足を運んでる 」 トンマな後手走法 ( 論法 ) では元々 「 追い着けないという結論 」 にしかならないのは全く当たり前の事だ … という反論だってありうるかも知れない。 [ ゼノンのこの議論 ( と直線の分割の議論 ) は元々 「 無限 」 という概念に対する論駁として為されたモノなので、そうした反論の仕方自体、いささか論点がズレているのだが … 。 ]
が、現実の競争では 「 アキレスは先に出発していた亀に何処かの位置で追い着き、追い抜いてしまう 」 ワケだから、上記の “ どんどん近付いてゆく ” というミクロな論理によってでも、( その論理の何処にももし論理的欠陥が無いのなら ) アキレスと亀の間の距離が 「 厳密にゼロ 」 となって 「 アキレスが亀に本当に追い付き・追い越す瞬間 」 はちゃんと存在し、記述可能でなければならない筈だ … という再反論が、ゼノン側にとって十分に可能なのである。
つまりこの議論は “ だから全然駄目 ” な議論なのではなく、実は逆に 「 未だにちゃんと本当には克服されていないこのアキレスの議論の存在 」 によって、人類は論理というモノの真の価値を一部見失いかけている … と分かるのである。
コーシーの収束条件というのは解析学の土台であって、微積分の基礎はそこにある。
[ が、ソレによって微積分が成ったという事を裏返せば、ソレは微積分を成立させる為にこの世界が本当は数学的にも ( 微細レベルでは ) 非連続で離散的であって当然 … という究極の真実を隠蔽する目隠しとなってしまったとも言えるのだ。 つまりコーシーの収束条件は、云わば数学者の苦し紛れの便宜的な答であり、この問題の本当の答では決して無かったのである。 ]
だからこの 「 アキレスの議論 」 を今更ながらに持ち出して来て 「 先にスタートした亀にアキレスは本当に追い付けるのだろうか? 」 などと真に哲学的な疑問を抱いたりすると、何処かタガの外れた馬鹿者だと思われかねない。
エルンスト・マッハの名著 「 力学 」 に依れば、ダランベールやマッハ自身は、そういう素朴な疑問を持ち続けた高名な物理学者であったが、その点では殆ど無視されてしまっていたらしい。
現実的に考えれば、先にスタートした足の遅い亀を、俊足のアキレスが後からスタートして追い着き追い抜ける … というのは全く当たり前の事である。
だからゼノンの哲学的な逆説に従って 「 アキレスは亀に追い着くことも出来ない … などという論理をとにかくは一旦認めて考えようとする者 」 を、数学寄りの人々が馬鹿扱いしたくなるのは分からないでもない。
が、厳密に哲学的に考えるなら、ゼノンの逆説に含まれる論理の何処にももしオカシナ処が見付からないのなら、どうしてそういう ( アキレスは亀に追い着けないという ) 妙な結論が出て来てしまうのかをちゃんと本気で考えてみなければいけない … という事になるのが当然の事の筈なのだ。
ニュートンやライプニッツやコーシーのもたらした解析学の効果は目醒ましかったから、数学こそが最重要と考えた人々はゼノンの提示した逆説に含まれる論理と本当には向き合おうとはせずに、結局、途中でそう問い続けるような相手を罵倒して逃げ出してしまったのである。
そうやって逃げ出してしまっても、古典物理学の世界に適用される限りに於いては特に何の支障もなかったから、解析学の手法自体に何か問題が有るのだとは気付かないでいられた。
20世紀に入って直ぐ量子力学に突入した物理学は、しかし、その為に問題を抱える事になった。
それは 「 発散の困難 」 と呼ばれる問題だった。
湯川秀樹を除けば、大多数の理論物理学者はこの問題を根本的に解決する方法を示すことは出来ず、ただ便宜的な手法で発散の困難など何処にも無いかのようなフリをしていた。
「 発散の困難 」 は本質的に、陽子や中性子や電子という観測可能な質量の有る粒子 ( 素粒子 ) を、大きさの全く無い数学的な点 ( 点粒子 ) であると見做してその電荷やエネルギー等を計算する事によって出て来てしまう 「 無限大 」 を一体どうしようか? … という実に馬鹿馬鹿しい問題である。
実際には恐らく数学的点なんかでは有り得ないモノを、無理矢理にでも数学的点として考えないと計算が出来ないので、そうして勝手に数学的点として計算してみた結果、質量も電荷もエネルギーも全部が、ちゃんと計算するとその解が無限大 ( = 発散 ) になってしまうのである。
粒子には大きさが有るものとして計算しようとすると、特殊相対論との兼ね合いで時間の同時性が確保出来なくなってしまうから、それを何とか避けようとして 「 粒子には大きさは無く、ただ位置だけがある 」 … という何とも非現実的な設定で計算しているのである。
この非現実的な仮定を止めて湯川は素領域という概念を提唱し、粒子にはその素領域サイズの大きさがあると考えていた。
( 素領域の大きさを10兆分の1センチ程度とすれば、発散の困難は解消するからである。 )
湯川のこの考えは空間の量子化を提唱していたかのようにも見えるが、発散の困難を解消する為のアドホックな仮説に過ぎなかったようにも見えないことはない。
何故なら湯川の素領域には 「 発散の困難を解決する 」 という以外の論理的な導入根拠が欠けていたからである。
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