( 疑問符 ) ( 2014.8.9. 記 )
“統計バカ”または“データ馬鹿”による 「 統計 / 確率公害 」 という呼称と概念を広く普及させるべきである
なぜなら 「 統計がある 」 とか 「 データがある 」 とか言いさえすれば、自分の議論が通ると思ってる ( 統計や確率の本当の意味を分かってない ) 馬鹿者や、( 本当の意味を知っていながらそれを無視して一般の人々を騙す ) 学者や評論家という名の詭弁家が、世の中には沢山居るからだ。
Copyright 2014.8.9. by うつぎれい
『 確率を本当に適用して良いのは、ただ統計的集合体 ( 統計的混合状態 ) に対する場合のみである 』
( 統計データを “ 確率 ” と呼び変え、個別の事柄にも適用可とするのは完全なウソ ・ペテンの非科学、要するに全然 「 科学 」 ではない。 )
つまり、統計的集合体から得られた統計的相対度数という知識を、科学として他に適用可能なのは同じ種類の統計的集合体に対してのみであり、特定の個別事例に対する確率解釈というのは、唯の非科学であり、単なる妄想に過ぎない。 ( もっと簡単に云うと、集団全体から得られた “ 集団全体についての知識 ” は、集団全体に対してしか適用妥当性が無い。 )
個々の特定事象・個別現象、個体に関して“確率”を適用して云々するのは、本来的に何の根拠も無い非科学的妄想である。
[ 野球やサッカーの解説に於ける数値解析の大半もまた、何の意味も無い解説者の戯れ言に過ぎない。 取り分け、特定の個別事象についての “ 確率 ” を云々するものの一切が、唯の馬鹿げた世迷い言である。 イチロー氏などはそのたまたま目にするマスコミの解説記事のみならず面と向かっての取材者が宣うその種のバカな世迷い言に一々ウンザリさせられてるのだろう。 「 本人の進化や変化 」 一切度外視で語られるナンセンスなデータ論には、傑出した個人である氏が 「 本質的に新しい進歩なんて何も起こる筈がない、と勝手に決め付けられての “ 失礼千万な推測 ” を聞かされるのは、唯々迷惑だからもういい加減に止めといて下さい 」 と言いたくなるのは全く当然なのである。 真の自信と創造性を有する者たちはそんなデータに頼ろうとはしないのだが、そうした資質に欠けてる者たちは未知の可能性など無視し、過去のデータに頼って偉そうなことを言いたがるのである。 つまり、自らが進歩しない者たちは進歩なんてモノを信じないから、それを語りたくないのである。 ]
● 統計的頻度が示すのは過去に起きた多数の事例での傾向に過ぎず、注目してる特定の未来事例に於いて 「 統計的頻度が高いから実際にもそれが起こり易い 」 …等というような意味合いは、元より 全く無い のである。
統計データ = 統計的相対度数をそのまま 「 確率 」 にスリ替えて、その 「 確率 」 が個別の未来事例に適用出来るもののように説明する場面がテレビ番組 ( ホンマでっかTV 等々 ) ではしばしばあるが、それは全くの間違いかウソ説明でしかない。
例えば、FBI 捜査におけるプロファイリングは統計的な頻度分析の典型だが、2002 年に ルイジアナ州バトンルージュ で起きた凶悪な連続殺人事件では、この統計的頻度分析に基づく犯人像の先入観が完全に裏目に出、1 度捕まえた真犯人を犯人像とは違うからと安易に釈放してしまい、再逮捕までに更に多数の女性被害者を出すという、FBI 最大の捜査ミスを引き起こしてしまったのである。
即ち 「 過去の風景 」 をどれほど精緻に分析したとしても 「 現在と未来の風景 」 をそれで縛れるワケではない。
ましてや個別事例は過去の平均なんかでは有り得ない …という事である。
処が、数値データばかり見て偉そうな事を言いたがる 統計至上主義者 = 統計バカ には、それが分からない。
● 統計データ = 統計的相対度数はあくまでも 「 過去に起きた多数の事例での傾向を示す 」 に過ぎないから、それが 「 確率 」 として使用されるのは、「 同種と考えられる現象や事象 」 を“ 推測 ”する為の参考数値として 「 統計的相対度数が転用 」 される場合のみである。
( 例えば、母集団から厳密な条件で適切に取り出したサンプル集団を分析して、母集団全体での傾向を推測する…というような場合こそが典型的である。 )
つまり 「 確率 」 とは、あくまでも 「 統計的相対度数を便宜的な“ 推測 ”に用いる場合 」 の呼称である。
● 統計的集団から抽出された 「 確率 」 は、せいぜいが同種の ( 別の ) 統計的集団に対して位しか適用出来ない。
統計データ = 統計的相対度数が、同種の現象・事象を推測する目的で 「 確率 」 と名を変えて適用出来る唯一の推測対象は、同種の統計的集団の “ 全体 ” のみである。
[ この使い方をしてるらしいのが、( バレーボール競技での ) データバレー等々である。 何故かと言うと 「 ほぼリアルタイムでの相手チームや相手選手のその時の弱点傾向をデータから読み取って 1 度ではなく複数回の攻撃を仕掛けた場合の成功の相対度数 …という尺度で、集計データをその場で活用してるからである。 こうした使い方にならちゃんと有効性と意味がある。 ]
● 一般的な統計データ = 統計的相対度数は 「 個々の事例 」 に対しては何の傾向性も云々出来ず、それは個々の事例や個々の人々に対しては何も言っておらず、個々の事例や個々の人々は統計やデータによって何の拘束も受けない…という真相を誰もがちゃんと知っておくべきである。
● 故に 「 統計があります 」 「 データがあります 」 と言って、統計データを絶対的なモノだと思い込んでる人々のアタマを、先ず疑わなければならない。
そしてこれから起こるかも知れない個別の事象や病気などについて、個々の人々にとってもその確率が高くなる云々 …というような怪しい説明を、もしテレビの解説番組などで聞いたら、それは統計や確率の持つ本来の意味を全く無視したマヤカシだと気付かなければならない。
だから、そうやって一人一人個性のある ( これを個体差という ) 人間や個別事例 ( これらを純粋状態という ) に、統計や確率というモノを間違った方法で適用する、全くの非科学的説明をする人たちを、これからは 「 統計バカ 」 や 「 データ馬鹿 」 と呼んで信用しないようにすべきである。
これは例えば 「 年間 ○ ○ シーベルトの放射線被曝だと百人に一人 ( 1 % ) がガンを発症して死ぬ 」 …というような統計データを元に、いつの間にかそれが 「 年間 ○ ○ シーベルトの放射線被曝だとガンを発症して死んでしまう “ 確率 ” が誰でも 1 % 有る 」 …という説明にスリ替わってる場合などがそれだ。
上のような統計データの本当の意味は、「 個体差のある多くの人間が年間 ○ ○ シーベルトの放射線被曝を受けた場合、放射能耐久性の低い 1 % の人は医学が今のままだとやがてガンを発症して死んでしまうが、それよりも放射能耐久性の高い大部分 ( 99 % ) の人々はその為にガンを発症して死んでしまったりするワケでもない 」 ということである。
統計データを強調して過敏な反応をする人たちは、上の 「 1 % 」 を “ 誰にでも起こる確率的な発ガン危険性 ” のように言って危険だ危険だと騒ぎ、楽観的に捉える人は残りの 「 99 % 」 を “ 確率的な安全性 ” のように言って、放射能のホルミシス効果でその位なら却って健康になる …などと気楽な事を言う。
が、実際は正に個人差、一人一人の個体差で、放射線被曝耐久性の低い 1 % 程の人々がガンを発症して死に、そうでもない人々が全体の 99 %、…というのが過去の放射線被曝者での統計データの本当の意味である。
つまり 「 統計データ 」 や 「 確率 」 というのは、それを見出した集合体と同様な集合体に対して適用されてる場合には、或る程度まで “ 科学的な推測の目安 ” で有りうるが、個別の場合の予測としては “ 全くの非科学 ” であって、何の役にも立たない唯のマヤカシと覚えておくべきなのだ。
故に、統計データを勝手に 「 個々人に対する確率 」 ででもあるかのようにスリ替えてされるウソ解説や説明こそが、“ 統計バカ ” や “ データ馬鹿 ” による 「 統計 / 確率公害 」 の実体である。
( 2014.8.26. 追記 )
「 純粋状態での確率 ( = 個別事象の確率 ) 」 という厚顔無恥なマヤカシを真に受けてはならない
このように単なる統計的な 「 相対度数 」 がワザワザ 「 確率 」 と呼び直されるのは、唯々、そうした多数の事象の 「 分布についての知識 」 しか人間が持ってないのにも拘わらず、あたかも 「 特定の個別事象 」 についても何らかの確かな推測的知識を人間が持ってるかのように言いたいからに過ぎない。
即ち 「 確率 」 とは、あくまでもその個別事象についての言明が 「 曖昧な推測 」 でしか無く、人間には 「 その正確な推測が出来ない場合の表現形式 ( 言いワケ ) 」 としてだけ、「 確率 」 なのである。
つまりソレが確率だという事は、ソレが 「 曖昧な推測 」 でしかなく、本当にどういう結果が出るかを知ることは全く出来ない …という事でしかないのである。
故に、量子力学に於ける波動関数の確率解釈 = 確率波 …というマックス・ボルンに始まる標準理論での解釈もまた、全く間違ったマヤカシ・妄想の類いでしか無い。
が、それについては、また改めて書くことにしよう。
以上
( 2014.9.4. 追記 )
ちなみに統計的集合体の全体から抽出された知識を 「 特定の事例 」 に当て嵌めてもまるで意味がない一例 マキタスポーツ氏の 「 10年目のプロポーズ 」 はいったい何故、大ヒットしなかったのか?
( 過去にヒットした作品のデータ分析で法則?を抽出し、それを利用して未来の大ヒットを作れる等と考えるのは、当人にその分野での才能が無いことの証拠である。 )
要するにマキタスポーツ氏のデータ分析主義で作られた歌は、あたかも 「 死体を切り刻んで寄せ集めて作られた、フランケンシュタインの怪物の如き楽曲 」 でしかない。
( 酷いことを言う…と思うかも知れないが、真の創造性というものを無視し、揶揄して、ああやって理屈のみで楽曲を作るということに対しては、上のような比喩こそが最も適切である。 他人の大切にしてるものを貶めようとすれば、自らも批判されるのを覚悟せよ…である。 )
それ故に、ヒットした歌の要素が可能な限り詰め込まれていても、そこには肝心の心や魂がまるで入っていない。
( 彼は NHK の対談番組で、グレイのリーダーに、その事を婉曲に指摘されていた。 )
氏の当の楽曲 「 十年目のプロポーズ 」 では、確かにひとつのテクニックとして、聴き手の共感を得ようと半ば意図的に 「 自らの出来ちゃった婚 」 を歌詞に取り込んでもいる。
だが先ず第一に、氏が本当にその事を歌い上げる為にこそ氏が作ったメロディーや歌詞、では全然無い…ということは、氏自身のあのミもフタもない解説によって、最初から見え見えなのである。
こうした種明かし的な説明や分析というのは、それ自体が当の楽曲のイメージや価値を著しく貶めるものであるのは言わずもがなである。
( 魔法は魔法としておくべきで魔法の楽屋は決して見せてはならない…という有名な言葉が有るではないか? )
更に聴き手は誰も、本心では自分の心を他人にコントロールされたく等はない…という事を、知にはたらけば角が立つのを承知で知にはたらいた氏が、最初から見落としていたのは多分間違いないだろう。
だからその如何にもヒットしそうな曲想と歌詞ばかりをつぎはぎして 「 フランケンシュタインの怪物 」 のように造られた彼の歌が、C D リリース後にあの 「 金スマ 」 その他への露出で日本全国に知られた後、結局一体どうなったのか?…を見るとその答が分かるのだ。
マキタスポーツ氏は半ば悪魔的な 「 データ主義 」 で J - POP の過去のヒット曲の要素を分析し、それらをもし目一杯盛り込んで歌を作ったら、きっと大ヒットとなるのではないか?…と予想し、明らかに大ヒットを目論んでそれをやったワケである。
彼の所属事務所は何しろオフィス北野だったから、テレビでの露出チャンスは得られたし、その出演での瞬間的なテレビ効果によって、あの曲は配信サイトのデイリーランキングでの上位に食い込んだりもしたのだが、長続きはせず、結局スマッシュヒットに終わった。 つまり決して大ヒットにはならなかった。
私たちは誰も、あの歌をコンビニの B G M など他の場所で聴いた憶えが無いのである。
本当の意味ではヒットなどしなかったからである。
( 三木道山や青山テルマの曲はそうではなかったろう )
過去のヒット曲の要素の出現頻度分析で得られた平均値の意味するモノとは、言い換えれば 「 何処かで聴いた憶えのあるメロディーや歌詞 」 ばっかりで出来てる、目新しさなど何処にも無い楽曲…という事である。
つまり、そうしたデータ主義で造られる曲は、必然的に 「 陳腐な曲 」 とならざるを得ないのである。
もしもマキタスポーツ氏の見出した法則 ? が本当に 「 大ヒットする曲の法則 」 であるなら、マキタスポーツ氏はそれを使って次から次へと曲を造り上げ、大ヒットを連発出来る筈ではないか?
( 実際に2012年6月20日に、氏の法則?をそのまま使って造られたと思われる 「 Life 〜 生まれてくれてありがとう 〜 」 という 「 十年目のプロポーズ 」 と正に瓜双つの曲が恥ずかし気もなく登場し、一寸だけ売れてオリコン 36 位にまでは付けたものの、同じバンドがその前後にリリースした曲と較べても結果は大差なく、むしろ少し負けていた。 )
が、氏はそうしなかった。
何故か?
理由は簡単、誰にでも分かることだが、こうして集約された法則 ? に基づいて造られた曲は、どれもみんな、判子で押したように似た印象の曲にしかならず、誰が聞いたって 「 またかよ! 」 というほど陳腐な作品にしか成り得ないのだ。
既にマキタスポーツ氏自身によって、そのあざとい原理が解説されてしまってるのだから尚更、そんな物に感動する人なんて居なくなるだろう。
だとすると、何時の時代にも何か新しいと感じるモノに心を動かされて消費行動を起こすのだろう、若者たちの多くがそれに反応して C D を買うなんてことは、先ず起こりっこなくなる。
[ マキタスポーツ式データ主義の 「 致命的な欠陥 」 は正にソコにある。 過去のヒット曲データの集約的分析という手法では、各々のヒット曲がそこで持ってた筈の “ 何か新しいモノ ” は悉く削ぎ落とされてしまって、痕跡など残る筈もないのである。 何よりも 「 新しさ = 進化 ・変化 」 だから、過去のヒット曲のデータを分析して応用すればヒット曲なんて幾らでも作れる …という理屈で 「 過去しか見ようとしない後ろ向きな人物 」 が、新しさというものを完全に見落としてしまっていたのは、まさしく理の当然なのである。 ]
若者らにとって上のような ( ヒットした曲の平均値的なただ心地よいだけの ) 楽曲…というのは、殆ど何もアピールしないだろう陳腐な歌の典型、ということになるだろう。
本質論から云えば、過去にヒットした作品のデータ分析で法則?を抽出し、それを利用して未来の大ヒット作品を作れる…などと考えるのは、当人にその分野での才能がまるで無いことの証拠である。
中島みゆきやつんく♂ は、絶対にそんなこと、やってない。
以上
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