東京長崎村物語 ( 武州豊島郡長崎村 ) うつぎれい 『 はじめに 』 日本には長崎と呼ばれる場所が、実は幾つかあります。ひとつはむろん九州「長崎」、そしてここに紹介するもうひとつは、東京「東長崎」です。 東長崎というのは実は地名ではなく、池袋から出てる西武線の電車の2つ目の駅の名前です。 この「東長崎駅」と隣りの「椎名町駅」の周りには「長崎」「南長崎」と呼ばれる2つの町があり、東西に長く拡がっています。 この横長の町の、どちらかと云うと西側に位置する駅の名にわざわざ「東長崎」と付けたのは、やはり西の「九州 長崎」に対する、東の「東京 長崎」…という意味だったようですが、もう一つ、当時の国鉄とそれに繋がってる私鉄沿線の駅名には同じ名前を使うことが出来ない…という決まりがあったのです。九州「長崎」駅はもうあったので、「東京の長崎」には別の名前を付けるほかありませんでした。そこで「東長崎」…となったワケです。 これは西の「京」都に対する東の「東京」都…というのと、多分同じでしょう。 「長崎」という名がこの地域に付いたのは非常に古い時代の事のようです。どうやら江戸幕府が開かれるよりずっと前から、この地域はもう「武蔵国豊島郡長崎村」と呼ばれていたようなのです。 以下は出所不明ながら「長崎町史」に在る説と、それに関連する話を纏めたものです。 『 長崎村の由来 』 長崎村の名は、鎌倉幕府末期にこの地域が、北条氏の被官「長崎氏」の一族の実質的支配領地の一つとなり、村に派遣された領主「長崎次郎高重」により、長崎一族の名を冠して「長崎村」と命名されたもの…と考えられます。 この「長崎氏一族」は平清盛のひ孫「三郎左衛門清綱」に発し、その住居が伊豆韮山の「長崎」*に在ったことから、以後代々「長崎」氏を名乗り*、その権勢を駆って一族の者を次々実質的支配領地に張り付け、その地を「長崎」と改名していった…という史実があります。その為に「肥前長崎( 九州長崎 )」や「陸前長崎」など、日本中の色々な場所にこの「長崎」の地名が出現しており、苗字がこれ程簇出したのは、この時期をおいて他に無い…という苗字学者の指摘もあります。( * 静岡県 伊豆 韮山の北には、伊豆の国市「長崎」という地名が実際に今もあります ) このような事例は、外国でもアレクサンドリアを始めとして幾つもあり、それらを以て傍証とするなら、「長崎」村もまた同様に「長崎氏一族」の権勢を示す為にそう命名された、と信ずべき理由は十分にあると思われます。 [ 注*;これは昔の人によくある話で、偉くなった人が自分の本当の名前「諱 ( いみな )」を主君以外には呼ばせないための措置だと思われます。所謂中国での「字 ( あざな )」と同じで、普段の一般用呼び名ということです。ジブリ・アニメの「ラピュタ」「千と千尋…」「ゲド戦記」にもその種の考え方が出て来ますが、当時の人にとっては自分の「本当の名」というのはやたらに他人に呼ばれたくないし、また勝手に呼んだりしては失礼な、特別に大事な秘密のものだった…という事のようです。また、この長崎氏は桓武平氏( 桓武天皇に仕えた平家武士 )であった為に平姓を表に出したくないという事もあったのかも知れません。] この説、結構ちゃんと辻褄が合ってる…と思うのですが、この「長崎町史」にある説を、歴史の専門家も豊島区も、出所不明としてまるで認めてないのだそうです。 しかし1559年には既に、小田原の記帳記録に「江戸 長崎」や「江戸廻り江古田村」という記載があります。つまり、北条氏はこの時点ではもうとっくに、長崎村の周辺を鎌倉幕府の課税対象地として把握していた…ということになります。ならばその被官の地位に在る件の長崎一族が、その内の村の1つに「長崎」と命名していた…ということには、十分な説得力があると思われます。上にも記した通り、長崎氏にはそうした自己( 一族 )顕示的な傾向が確かに有ったからです。 一方、長崎村の方は、村全体の運営がどうやら回り持ち制だったらしく、この古い時代の書面での記録が何も残ってません。( これら一連の指摘は、地元の田島俊雄氏によるものです。) かくして、出所不明とは言うものの、この長崎村にそのような話が、口伝で残ったという可能性は大いにあるワケです。 何事も証拠主義・書類主義で、文書の残ってない「口伝」など一切無視…というのであれば、まあ何を言っても無駄でしょうが、他には資料が何も無い以上、上記のような可能性を一旦は認め、尊重すべきではないでしょうか? いずれにせよ、長崎町史として伝わるものを一切無視して認めない…という学者や役人…というのは、一体どういう了見なんだろう?…と思ってしまいます。 その判断基準は実を云えば分かり切っています。彼らは何事も書面に依存して決め、自分自身の洞察で何かを判断するという事それ自体を避けているのです。 証拠が有れば良し、証拠に基づいて…ということであれば、後でそれが間違っていたとしても少なくとも自分の責任にはならないから! しかしハッキリとした分かりやすい証拠無しに、自らの洞察を加えて判断などしたら、あとで違っていた場合、自分が責任を問われかねない。何事も減点主義で査定される事が普通な、日本の学者と役人の大半は、この故にこそ自分の洞察力を用いた判断を可能な限り避けてしまいがちです。しかしこれは「真実の発見」や「学問の進歩」にとって、どれぐらい有害か分かりません。 だからこそ、彼らの「認める・認めない」を一々気にする必要はないのです。 彼らは、あの「三内丸山」や「与那国島の海底遺跡」だって、それが実際に発見されるまでは( 否、後者は発見された後にもまだ「自然物だ」と言い張って )認めようとはしなかった人たちですから。 彼らが全く認めなかったとしても、それが本当ではない…という事には全然なりません。 江戸時代に「武州豊島郡長崎村」と呼ばれていたこの一帯は、こんなにも近いのに実は「江戸」ではなくて、基点・日本橋から約8キロの距離に在る、クヌギの山の向こうの山村でした。 でも江戸幕府が開かれるまでの豊島郡とは、千代田区、中央区、港区から新宿区、豊島区、練馬区までもを包括する広大なものでしたから、太田道潅によって造られた最初の小さな「江戸城」は、ずっと豊島郡に在ったのです。(「太田道潅が江戸城を造った」…というのは紛れもない事実ですが、太田道潅はべつに江戸時代の巨大な江戸城を造った…というわけではありません。江戸城をあそこまで巨大化させた…城郭としては世界最大…のは徳川家康です。) [ 因みに、太田道潅が武蔵国の決戦「江古田原の戦い ( 1477年 )」で打ち滅ぼした豊島氏の二つの城のひとつ「練馬城」跡が、今の「豊島園」の敷地に当ります。この戦いで国人 ( その土地の豪族領主のことをこう呼びます ) 豊島泰経と豊島泰明の兄弟は共に討ち死にしました。 周囲の勢力から見てやや独立的であり過ぎた豊島氏は、石神井城と練馬城を相次いで攻め落とされると、そこで一旦滅びてしまいます。( 練馬城の痕跡は、豊島園を造る時に全部破壊されてしまったので、残念ながら何も残ってません。西武創始者の堤康次郎は随分乱暴な開発の仕方をしたものです。) 興味深い事に、この敗けた豊島氏はその後東北に出現します。武蔵国から落ち延びた畠山重村という武士が秋田に現れ、秋田県河辺に「戸島( としま )城」を築くと「豊島城主豊島重村」と名乗るようになります。この「豊島氏」はその後、奥羽地方( 東北地方 )一帯に勢力を拡げて行く国人「出羽豊島氏」になります。それで元々は「武蔵豊島氏」の家来だった筈の家系の人 ( の子孫 ) たちが今は秋田県民になってたりします。また実際、秋田県 河辺郡 戸島には「豊島城跡」という遺跡が残っており、石神井公園と豊島園に城を構えてた豊島氏一族が、落ち延びて東北の豪族となったのは間違いありません。この辺りの事はその家来の末裔である佐藤守さんという方が詳しく研究されています。] 「江戸市中 ( 後の大江戸八百八町 )」が豊島郡から切り離され、豊島郡長崎村がその「外側扱い」となったのは、徳川家康が江戸城を前例の無い超巨大な城へと増築し始めた頃からです。 差別ですよね!…これって? 江戸城は徳川家光に至るまで延々と3代もかけて増築され続け、現在の皇居全体の大きさにまで拡げられましたが、その為の立ち退きなどは、まさしく問答無用で行われたそうです。神田山( 実は山があったのです )は容赦なく切り崩され、その土で日比谷入江が( 環境破壊も考えずに )埋め立てられました。( 日比谷公園って昔は砂浜と海だったんですねー? それにしても武士ってのは乱暴だねえ。まさに江戸の環境破壊第一号なワケか…。) おっと脱線、もとい! 新宿のやや西辺りから、落合村とその奥を描いた下の絵を見ると、当時の長崎村の様子が何となく分かります。 「落合惣図」というこの図の、中央やや上に見える山と木々の間に「薬王院」の名が見えます。その後に小さく見える「ねずみ山」が、以下に説明するように長崎村の南端に在り、隣接する2つの村々との境界を成していました。その右側に在るのは「御留山 ( 現在の「おとめ山公園」)」ですが、その右肩に「富士」とありますから所謂「富士塚」が在ったものと思われます。「おとめ山公園」そのものについてはこちらに詳しい解説があります。 この辺りは実は将軍家のお狩り場で「おとめ山」は「乙女山」ではなく、一般の者が入ることを「禁止された ( 止められた ) 山」の意味です。そして将軍がその狩りから上がって休んだ場所は「上がり屋敷」と呼ばれてました。山手線との立体交差の直ぐ手前に昔はあって、今でもまだホームの跡が残ってる西武線( 武蔵野鉄道 )「上がり屋敷駅」とか、現在もある「上がり屋敷公園」という名称は、その名残りです。 新番地表示によって、こうした旧い地名が次第に消えていってしまう事は、私たちが自らのアイデンティティを次第に見失ってゆく…ということを意味します。住居表示には判明してる全ての古い地名を、カッコ内に入れてその時代年号と共に表記すべきだ…というのが筆者の持論です。 日常的には新住居表示を用いて、情報としては旧い地名の一切をもカッコ内に並列表記しておくということには、本当は何の障害もありません。だからこれを無視してさせないのは、合理主義とか未来志向の為なんかではなく、日本人一般の意識を「( 民族的に )根無し草」化してしまおうと画策している者たちの「意図 ( 悪意 )」によるものです。 長崎村は当時、東の「雑司が谷村」、南の「落合村」、西の「上板橋村( 江古田 )」、そして北の「下板橋町」にと接していました。この長崎村南端、雑司が谷村との境界に位置する海抜35メートル程の「鼠山」は、その昔、奥州侵略から戻った源頼朝が敵方の夜襲に備えて寝ずの見張りを立てた山…ということから「寝ず見山」と呼ばれていましたが、“俗な簡単化”へと向かう地名の常で、いつの間にか変化して、江戸時代にはもう当然の如くに「鼠山」となっていました。 この辺り一帯は江戸時代にはクヌギの山で、実はネズミどころか、ウサギやキツネ、タヌキ、イノシシまでもが棲息する場所でした。( 徳川吉宗の時代に鼠山で猪狩りが行われています ) 鼠山は小さい山ながら薬草の宝庫としても知られ、キノコや万年茸も採れました。採れた万年茸を将軍家に献上して、長崎村は幕府から褒美を貰った…という記録もあります。 この鼠山にはまた、江戸時代に立派な寺が建立され「江戸の新しい名所」として持て囃されていた時期もあります。が、当の寺に関係の深かった ( ラスプーチンの如き ) 高僧による、重大な「女犯事件」がお上に発覚し、建立から僅かに5年で、寺は「お取り潰し」となりました。 不敵にも将軍家のお女中と不倫を働いてた女犯坊は遠島( 島流し )、そして寺は徹底的に解体され、元の草地にと戻ってしまいました。( あれまーですよねえ?) 上とは別にもう一枚、当時のこの辺りの「眺望の良さ」を示す絵図があります。安藤広重の富士三十六景中の「雑司ヶや不二見茶や」( 下 )です。高い建物の無かった江戸時代では、僅かに標高35メートルの山 ( ← 丘だってばさ! ) であっても実に眺望の良い名所だった訳です。 現在目白2丁目に在る「目白の森」公園には、この頃の山林の面影がほぼそのまま残っています。そしてこの「目白の森」を東端とする小高い住宅地の一画こそは、この時代の「鼠山」なのです。そう思って夏場に撮られた緑の多い航空写真でこの辺りと「おとめ山」辺りを良く見ると、それぞれの周囲一帯に疎らではあるものの他の場所より緑の多い事に気付く筈です。これはこうして住宅地にされても、その各々の区画内での最も枝ぶりの良い立派な樹木などが、指定樹木となったり、或いはその土地の持主によって夫々1本から数本が切るに忍びず保存されるからです。 こうして元々山だった場所は、空から見ると「全体的に何となく木の多い場所」として識別できるのです。( そう思った上でこっちの全体図なんかも見てみて下さいね? WindowsIEならF11のキーを押して「全画面表示」にしてから、マウスのボタンではなく「ダイアル」をクリックし、ゆっくりとマウスを右下に向けて動かして下さい。すると「長崎村」の上空全域を約マッハ1.6位の速度でUFOみたいに飛び回れます。) 江戸時代後期の著名な植物学者 岩崎潅園( 常正 )は、この鼠山を度々訪れて記録を残しています。 ( なお現在のこの南長崎の大地主である岩崎家とこの人物に関係があるかどうかは知りません。まだ岩崎さん家には尋きに行ってないもので。) 江戸時代の長崎村は、現在の長崎、南長崎、千川、千早町、要町、高松町、目白の一部、池袋と西池袋の一部、下落合の一部までを含む、かなり広い範囲を指していました。当時の長崎村は、今の豊島区の約 1/4 〜 1/3 もの広さがありました。実際にこの場所をいま改めてグルリと1周してみると、その余りの広さにビックリさせられます。長崎村ってこんなに大きかったんです! ( 下は豊島区立 郷土資料館 発行の「長崎村物語」に所載の明治42年の土地利用図に田島俊雄氏が現在の鉄道と幹線道路の位置を赤で記入されたものですが、長崎村のほぼ全体が入っています。) 長崎村は農村地帯でしたが、長崎村の農民にはどうやら余り貧しい農民は居なかったようです。 長崎村は江戸の神田市場に即出荷できる近郊農業の典型であり、幕府直轄の五郎窪新田も抱え、茄子や大根は長崎村の特産でした。( 俗に言う「練馬大根」とは、この当時は長崎村の特産物でした。豊島郡なのに何で「豊島大根」じゃないの?…なんて訊かないで下さいね。) 長崎村はまた、植木の苗木なども出荷していて、中々に栄えていました。 村の鎮守「長崎神社」のある西武線「椎名町駅」周辺は、昔から長崎村の一つの中心で、明治時代の長崎村に一番最初に出来た小学校は「長崎小学校」でした。そして村の「役場」もその直ぐ右隣りでした。( 中央やや下の、マルで囲んだ部分がそれです。) 江戸時代の長崎村には、まだ西武線は通っていなかったので ( 笑 )、実際に最も賑わっていたのは、もう少し南にある「椎名町」という、当時の“道の駅”でした。[ 大正13年に出来た西武線( 当時は武蔵野鉄道と呼ばれてましたが )「椎名町駅」の名も実はこの町の名から採られています。] この“道の駅”の「椎名町」は、現在の目白通りと山手通りの交差点を中心として東西にそれぞれ数百メートルも延びていました。ちょうど現在の目白通り「丸正」辺りから、西は二叉交番の少し西の「東京信用金庫」ぐらいまでが、この頃の「椎名町」に当たっています。当時「山手通り」は無かったので、途中で町が分断されたり…ということは一切ありませんでした。 ここには長崎村やその直ぐ南側の下落合村の農家の人たちが、日々の買い物にとやって来る場所で、多くの商家が並びとても賑わっていました。古い記録にも「小名、椎名町。練馬村あたりへの往来にて民戸連住す」「椎名町商人の家に貧しきは見えず」とあります。( 小名とは場所の事です ) その中で最も繁盛していた店が「慶徳屋」で、下の二つの道がT字路に重なる位置にありました。慶徳屋は雑穀と荒物を扱い、紀行文にも“豪家”と記される程の大きな店でした。 当時の道筋は今よりずっと細いものでしたが、江戸時代からある東西を繋ぐ商品運搬路( 清戸道 )で、長崎村の作物や茄子苗や植木などの出荷物は、この道を通って江戸の神田市場へと運ばれていました。また椎名町の中心から北に向かう旧道( 長崎神社の正面左脇を要町通りへと抜けるあのやや曲がりくねった道 )もあって、椎名町というのはなかなかに便利な良く栄えた町でした。 “近くに駅も無いのに何故か商店街になってる”こうした場所には、大抵その昔「道の駅」だった…という歴史があります。 この古い「椎名町」にある商店街には、そのずっと後に「トキワ荘」に移り棲んだ石森章太郎や赤塚不二夫等も買い物に来るのです。 寺田ヒロオのコロッケパンのパンの調達先「片山菊華堂」は今のデイリー・ヤマザキの場所に在って、石森章太郎のレコード購入先だった「目白堂」は今も健在です。中華「松葉」は藤子不二雄の「まんが道」で随分と有名になりました。 山手通りの交差点角にあって、彼らの夏のオアシスだった喫茶店「エデン」は、山手通り拡張工事のあおりをモロに受けて、遂に無くなってしまいました。無くなる少し前に私はエデンの経営者ご夫妻とお話ししたことがありますが、今はいったいどちらにいらっしゃるのでしょうか? 昭和30年代、バス通り ( ニコニコ商店街 ) からトキワ荘入口へと向かう道の角には、スーパー「第一マーケット」が有り、そのもっと先の「山政マーケット」と共にとっても賑わっていました。 当時はまだ、今の椎名町の駅前よりも「ニコニコ商店街」の方が賑やかだったんです。 その頃のこの町を舞台にして描かれた石森章太郎の名作に「あかんべえ天使」…という作品があります。( 少女クラブ増刊号に載った一連の 48p 作品で、編集の丸山昭氏が石森章太郎に描きたいものを描かせてくれたからこそ出来た、あの「龍神沼」とも双璧をなす名作です。) 脚の悪い子犬を天使だと思い込んで、10円で身請けした、ヤッコちゃんという小さな女のコが主人公の、とっても詩的で素敵な、裏町のおんぼろアパートの人情物語でした。( 真ん中に居るのが、その子犬とヤッコちゃんです。) おっとっと、いきなり昭和30年代まで時代を下ってしまいました。もとい! さて、椎名町からのこの道をもう少し西の方に行くと、五郎窪( 今の南長崎5丁目辺り )という、また少しだけ賑やかな場所がありました。その北側は「ヤマ ( 雑木山 )」と呼ばれていて少し高くなっていたようです。 そしてこの五郎窪のもっと奥まで行った先( 今の南長崎6丁目郵便局辺り )には、葛ヶ谷という妙正寺川の支流の源泉があったのですが、明治時代になると何とそこに「牧場」までが出来ます。元陸軍獣医( 大尉 )だった籾山英次氏の創始になる「籾山牧場」です。( 大正初期に出来た…という誤解があるようですが、上の「明治42年の土地利用図」には既に載っており、「明治30年の同じ図」には載っていないので、恐らく明治30年代の設営と思われます。籾山英次氏についても何も分かりませんので、もし何か詳しいことをご存知の方がいたら、是非教えて下さい。連絡先はこちらです。) 因みに日本では明治維新まで、動物を囲いに入れて「家畜」として飼う…という事が、完全に人道的な理由から、勅命( 天皇の命令 )によって禁止されていました。 「もし生き物を柵に入れて飼うことを許したりすれば、それはやがて人間をも檻に入れて飼う…ということに繋がるに違いない」…という認識だったのです。日本の天皇家は当時の中国で普通だった「人肉食の風習」を一切認めず、それが国内に入って来る事を堅く拒否し続けていました。( 感謝ですよね!) その故に江戸時代の日本では「肉食」自体が禁止されていて、猪肉を食べるのにわざわざ「山鯨」( 魚や鯨など、海の生き物はOKだった )と偽って食べていたと云いますし、だからこそ農民のする「スキヤキ」も証拠の残る家の中ではなく、野外にて鋤( スキ )で焼いて食べて誤魔化し、知らん顔をしていたと言います。 尤もその割には「猪狩り」とか「鹿狩り」「キジ狩り」なんかを結構やってもいるので、一体どーしてか?…と思うんですけどもねぇ。 もとい! という訳で日本国内に堂々と「牧場」と名乗るような施設が出来たのは、すべて維新後のことだったのですが、意外にも、豊島区は明治維新以後の東京に於ける『 牧場地帯 』でした。 何と豊島区だけで59ヶ所もの牧場があったことが分かっています。( 他の区にもかなり… ) 長崎村にはその中でも特に面積の広い、「籾山牧場( 約1万坪 )」、「安達牧場」、「足立牧場」、の3つがありました。(「安達牧場」は長崎小学校の東側の道を南に向かって、西武線の踏切を渡って少し行った十字路の南東の一画に在りました。その十字路の角には今でも「安達牧場」の看板の掛かった牛乳屋さんがありますが、その背後の駐車場やマンションの立ち並んでいる場所には、むかし牛が一杯居たワケです。もう一つの「足立牧場」の場所については今調査中です。) でも、いったい何故そんなに多くの牧場が東京にあったのでしょう? 実は当時、まだ目新しい牛乳の需要はほぼ東京にしかありませんでした。そしてまだ冷蔵技術の十分で無い時代の話ですから、新鮮な牛乳を確保する為には、東京近郊に直接牧場を作る以外方法がなかった…という訳です。 大正12年に起きた「関東大震災」の後、震災被害の比較的軽かったこうした近郊の農村には、都心から沢山の人々が住居を求めてやって来るようになりました。この長崎村にも多くの人達が移住して来て、農家は借家経営をするようになりました。農地の宅地化政策もどんどん進み、農家は農業をやめ、農地は次第に消え、牧場も消えて、長崎村はやがて住宅地へと変わってゆきました。そして1928年( 昭和3年 )には、その最後に残っていた「籾山牧場」もまた、住宅地にと変わりました。 「籾山牧場」の在った正確な場所は、現在の南長崎6丁目の南側、ちょうど鹿島建設の社宅と中野通りとに挟まれたあの一角に当たります。( 上の地図でも確認してみて下さいね ) さて、ここで長崎村の神様の話をしましょう。 先ず長崎村にはこんなに沢山の神様が祀られています。 長崎村に在る色々な神社の一覧 [ ★は、祀り場所の移動歴がないもの ] 高松柳稲荷神社 ( 高松2-30-1 ) 子育地蔵 ( 高松2-30-1 ) 庚申塔 ( 高松2-22 ) ★ 延命地蔵 ( 要町1-41 ) 浅間神社 ( 高松2-9-3 ) ★ 庚申塔 ( 要町2-25 ) 榛名神社 ( 千川1-24-22 ) 粟島神社 ( 要町2-14-4 ) ★ 庚申塔 ( 千早3-46 ) 元々は千早4-25-21に ( 但し道の西側から東側への移動 ) 稲荷神社 ( 長崎6-39-8 ) 庚申塔 ( 長崎6-9-15 ) 地蔵堂 ( 千早1-23 ) 御嶽神社 ( 千早1-5 ) 八幡神社 ( 長崎1-25-9 ) ★ 羽黒神社 ( 西池袋4-23-3 ) 元々は長崎1-25-9に 西向不動 ( 長崎2-30-9 ) 庚申塔 ( 長崎3-29-1 ) 観音堂 ( 長崎3-28-1 ) ★ ( 長崎公園の北東側に在る墓地です ) 小城山観音 ( 長崎4-23-6 ) 元々は長崎3-4-11に 小城稲荷神社 ( 長崎3-6-17 ) 稲荷神社 ( 南長崎5-12-7 ) ★ 子育地蔵 ( 南長崎2-3-4 ) 元々は南長崎3-1二叉前に 参詣記念碑 ( 南長崎1-12-12 ) 閻魔堂 ( 南長崎1-12-12 ) 天祖神社 ( 目白5-7-14 ) ★ 不動堂 ( 金剛院前 )( 長崎1-9-2 ) 元々は南長崎5-12-7に 道標 ( 金剛院前 )( 長崎1-9-2 ) 西原不動尊 ( 個人宅 ) 場所が度々変転しました 北原不動尊 ( 個人宅 ) 元々は千早4-21に およし(ふみ)地蔵 ( 練馬区林宗院 ) 元々は千川1-39 放射36号線内に 長崎神社 ( 長崎1-9-4 ) ★ 金剛院 ( 長崎1-9-2 ) 元々は長崎3-28-1に 千川地蔵 ( 練馬区能満寺 ) 元々は南長崎6-14に 第六天(水神様) ( 長崎2-15-5 ) ★ 駐車場の奥にひっそりと在ります。 どうです? こんなにあるなんて、ちょっとビックリですよね? 一体何を祀ってるんでしょう? 農村であった長崎村の鎮守は長崎神社です。元々は豊作と疫病除けを願う素朴な祈りの場ですが、日本人というのは何かの心配事ごとに一々全部神様を認めて、それにお祈りする…人種です。 全体の統一…という事には殆ど関心が無いように見えます。( 何しろ「神仏合体」まで認めていたのですからね ) だからひとつの村どころか小字毎、小名毎にさえ、それぞれ同じ神様を祀って祈ったりもします。 長崎村に幾つもの庚申塔や稲荷神社や不動尊や子育て地蔵が有ったりするのも多分その為です。 庚申塔というのは猿田彦を祀ってあるのですが、長崎村はもう庚申塔だらけなので、きっと相当に人気があったのだろうと思います。 こうして長崎村には、沢山の神様が祀られてますが、その由来を見ると、日本人の神様観念というのは本当に一神教のと違って、余りにも寛容なのでついホッとしてしまいます。 元々湧き水の故に祀られた「粟島神社」は、水乞いに応えてくれる神様ですからもちろん「弁天様」なのですが、そのほぼ同じ目的で祀っているのに違いない「第六天( 水神様 )」や「御岳神社」や「榛名神社」もその直ぐ近くに祀ってあって、こんなにも祈願目的が同じ神様同士が、果たして縄張り争いでコンフリクトを起こしたりしないのだろうか?…といささか心配になります。 が「八百万の神」を平気で認めてしまう日本人とその神様たちは、どうやら他の神様と喧嘩したりはせずに、ちゃんと仲良くやってくれていたようです。 こういうのも、アメリカ人に云わせると「談合体質」になるのでしょうかしらネぇ? さて、ところで、昔の長崎村は、椎名町、地蔵堂、並木、荒井、大和田、五郎窪、水道向、北原( きたっぱら )、西原、西向、境窪、北荒井、高松、前高松…という14もの小字( こあざ )に区分されていました。 この地域の例えば、 「高松・北荒井」の本橋さん、荒井さん、篠さん、 「地蔵堂」の大山さん、山上さん、 「並木」の鴨下さん、秋元さん、斉藤さん、並木さん、 「荒井」の大野さん、 「椎名町」の秋元さん、 「大和田」の足立さん、桑山さん、 「五郎窪」の岩崎さん、市井さん、伊佐さん、秋元さん、小山さん、小嶋さん、小川さん、 「西原・西向・北原」の清水さん、田嶋さん、鴨下さん、吉田さん、本橋さん、 「境窪」の坂本さん、田嶋さん、本橋さん、龝本さん、 …といった家の名前は、江戸時代の終わり頃にはもう、この長崎村にしっかり定着していた家系の方のようです。 『 長崎村の水源の話 』 前述の通り、江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけての旧い「長崎村」というのは、現在の町名で云う、長崎、南長崎、千早、要町、千川、高松、そして目白4丁目と5丁目、西池袋4丁目と5丁目の西の端、池袋3丁目の西の端の「谷端川親水公園」、下落合の北の端までもを含んだかなり大きなものでした。 それでも遠い昔、まだ出来たばかりの頃の長崎村は、7個所の小さな湧き水( こうした小さな谷地形を「谷戸」と言います。場所についてはこの下の地図を見て下さい。この図は前出の田島俊雄氏の描かれたものを引用しました )から流れ出した小川のほとりに4つの小さな集落が点在してるだけのものでした。 今の東長崎と椎名町しか知らない私たちには、いったい何処にそんな川なんてあったのだろう?…と少々不思議に思ってしまいますよね? でも長崎村には、現在の粟島神社の湧き水を1つ目の主水源として、そこから南へと流れる谷端川( やばたがわ )という小さな川がありました。 長崎村一番の水源はここなので、この湧き水がそのまま水の神様である弁財天を祀る神社にもなったのは、すごく分かり易い話です。村の人たちは旱魃になると、その最初の段階では先ず粟島神社にお参りして、散々放ったらかしにしてた池の周りの草を刈って、神社をキレイに掃除して、それから金剛院のお坊さんを呼んできて「水乞い」の祈祷をして貰ったと言います。 でも一体何で、弁天様の神社で祈祷するのに長崎神社の宮司ではなく、仏教系のお寺のお坊さんに頼むのか?…と突っ込みたくなりますが、今更言っても仕方がありません。それでもちゃんと「霊験あらたかだった( たちどころに効果が有った )」…と言いますから、やはり真言密教系のお坊さんには、世に言われるような何かの超能力があって、その加持祈祷には特別の効き目が有ったのかも知れません。 何しろ空海の真言密教というのは、実質的には仏教よりむしろ西洋の魔法の方に近いものですし、あの北野恵宝師もそれから阿含宗の桐山靖雄師も元々は真言宗だったのですし…。 おっとまた最初からいきなり脱線してしまいました。もとい! 分かり易く、もう一度最初から説明し直した方がいいですね。では、ここまで戻りましょう。 でも長崎村には、現在の粟島神社の湧き水を1つ目の主水源として、そこから南へと流れる谷端川( やばたがわ )という小さな川がありました。( 下の地形図の緑色の部分の細くなってる端の側に水源の起点が在りました。後に千川用水と繋がったこの川は総延長22kmにもなります。) その流れに、2つ目の湧き水( 千早町2丁目の観音堂の南にあった = 多分「長崎公園」の辺り? )が西から長崎2丁目の休日診療所辺りで合流します。更に3つ目の湧き水( 今の長崎小学校と椎名町小学校を結ぶちょうど中間点辺り = 「西武線の線路上」かその一本南側の低い道の辺りです。この低い道の鋪装の下からは以前川砂が出ています。)が、椎名町サミットストア前か踏み切りの辺りで、この「谷端川」と合流してました。 この川は椎名町駅のホーム南側で急に東へと曲がり、あの焼き鳥屋さんのある細い路地を抜けて、フタバ図書の前の桜並木を駆け抜け、山手通りを越えて少し行った所でカーブしてまた北へと向きを変えます。そして山手通りの直ぐ右側( 東側 )を、通りとほぼ平行して駆け上がって行きます。もちろん昔は山手通りなんてありませんから、川は周囲の水田の中をのどかに流れて行きました。 現在その同じ経路を辿っている、あの山手通りの直ぐ東に延々と続く「谷端川緑道」こそは、今は地下にと埋め殺されて下水道化されてしまった、この長崎村の産みの親、母なるガンジス…じゃなかった母なる「谷端川」のお墓なのです。 合掌… なんちゃって! ちょっと入れ込み過ぎかな? でまた、もとい! 川は今の要町交差点の直ぐ東側を通って高松一丁目のワキを擦り抜け、そしてそこでもまた4つ目の湧き水( 高松2丁目と要町1丁目の境目辺りにあった = 「浅間神社」の辺り? )が、その流れにと合流します。 そうやってまるで、長崎村を抱くように巡った「谷端川」は、高松町の東側で遂に長崎村から離れ、池袋3丁目の現在の「谷端川親水公園」の場所を最後に、名残惜しげに北東へと流れ去ります。( ←「モルダウ」を作曲中のスメタナかよっ?!…って三村に突っ込まれちゃいそ… ) 野菜栽培が盛んになった頃、この「谷端川親水公園」の場所は、農家の人たちが出荷前の野菜を洗って泥を落す「洗い場」でした。そして今では此処は、当時の流域中で唯一、地上に残る「谷端川」の痕跡となっています。( かな? ) 『 平野部にある多数の水源の謎 』( もうとっくに知ってる人は、突っ込まないで下さいね♪ ) 長崎村はこんな風にこの壮大な谷端川のまさしく源流地域なのですが、ここで多分大抵の人は不思議に思うでしょう。大した起伏も無くて殆ど平坦なこの長崎村に、一体どうしてそんなに幾つもの湧き水があったのか?…ということをです。 でもこの疑問は「広くて殆ど起伏の無い平坦な場所」に少しでも多く雨が降ると、そのあとで一体どういう事が起きるのかを、今の私たちがもう全然考えなくなっているからこその疑問なのです。 下水道というものが完備していない古い時代では、地面に滲み込む以上に降った雨は、ほんの少しでも低い場所に向かって一斉に流れ出すしかありません。長崎村の古い地形図を見ると、今より以上に土地に起伏のあったことが直ぐに分かります。それなりに山や谷があったのです。 少し高い所は「ヤマ」や「雑木山」と呼ばれ、低い部分は「窪」や「谷戸」と呼ばれていました。谷戸とは水場のことで、この長崎村のようなものを「谷戸集落」と言います。その低い場所が、雨の度に全部水没するのを防いでいたのが、周囲にあるクヌギの山や、多くの草木の保水力、畑、そして水田だった…という訳です。( 尤も一番低い場所は常に水路なのですけどもね ) 降った雨の水は、こうした植物の持つ保水力のせいで、それらが植えてない場合よりもずっと多く土に滲み込むことが出来ました。( 実際には土が…ではなく植物の根や茎が‥ですが ) そうして滲み込んだ水は、ほんの僅かの距離であってもとにかく透水層の土で濾過され、粘土層に遮られて行き場を失い、結局は、その直ぐ近くの「低い土地の裂け目」から、湧き水として流れ出すことになります。でもそのように一旦地中に滲み込んでから濾過され湧き出す水の方が、地表をそのまま流れて土や埃や汚物などと共に濁流となってしまう直接の雨水よりも、生活用水としてずっと優れているのは言う迄もありません。 長崎村では多分、見た目での湧水量の一番多かったのは、今の粟島神社の池( 湧き水 )だった…と思われますが、地形からすると「谷端川」や「そこに合流する小川」それ自体の中にも、きっと多くの湧き水が存在していたものと考えられます。 [ この意味からは、「源流」とは唯、その一番高い位置にたまたま噴き出した湧き水…というに過ぎないことが分かります。でもそんなに湧き出し難い一番高い所からとにかく噴き出してくれて、その分その川の全長を延ばしているのですから、「源流となった湧き水さんはやっばり偉い!」…という見方も出来ない訳ではないですネェ。( ^o^ ; ] これらの事に一旦気付くと、川というものの「源流」概念についつい拘ってしまうのは、私たち人間の極めて皮相な観念でしかない…ということが分かってきます。その川の全体を支えているのは、その元々の川の「真只中にも噴き出しているだろう知られざる湧き水」と、そして「そこに流れ込む支流の湧き水すべて」との、その一切を集めたまさしく「その全体」…なのです。そしてその「湧き水の全体」とは、まさしくその流域全域に降った「雨の全体」こそが、その「母体」となっているのです。 つまり近くに山が在って、そこからやって来て噴き出している…というような「湧き水」なのでなければ、そして他の土地から流れ込んで来る大きな川や、地下の川からの水を汲み上げている…というのでなければ、その土地にある「湧き水」というのは、基本的に「その土地に降った雨」によってしか得られない…という訳です。当時の谷戸集落にとって、どれほど「雨」というものが重要だったのかが、本当にヒシヒシと分かって来ます。だからこその「弁天様信仰」なのであり、「粟島神社」なのであり、「奥多摩・御嶽神社への水乞い」や「群馬の榛名神社詣」だった訳です。 長崎村の人々は深刻な旱魃の際、わざわざ「奥多摩・御嶽神社」まで「七代の滝」の御神水を貰いに行き、長崎村までは歩いて帰り、その水で「雨乞い」の儀式をしていました。( 例1918年 ) そういう事は決して珍しい事ではなかった為、御嶽山には長崎村の水乞いの人たち専用の宿があり、原島さんという現地の世話人の方が居ました。こうした世話人を御師( おし )と呼びますが、色々な村からの御師の集まった麓の村を御師集落と呼びます。御嶽山の御師集落は今でも有って、長崎村の御師の原島家もまた健在です。 だから関東平野の如く「だだっ広い平地での湧き水」というのは、基本的に「大地からのオマケの恵み」なんかではなく、まさに「雨の恵み」にだけ依っていたのです。 広い範囲に降った雨は、そこが殆ど平地なら、どこにも流れ出さずにそこに溜まって滲み込むしかないので、そこに多少の起伏があって、その低い場所に水が地表からも地下からも集まって来れば、結局、そこがその地の水源になる…というのは、考えてみれば全く当然の事なのです。 この事が判ると、今のように土地の大部分をコンクリートやアスファルトで覆って、折角降った雨を殆ど生かそうともせず、まるで只のゴミか邪魔者のように、そのままドブへと流しこんで捨ててしまってる、現在の私たちの「何とも恩知らずかつ傲慢な」生活方法は、近い将来きっと水の神様に罰せられるのではないか…というような気がしてきます。雨水の大半を即座に下水管に流していれば、現在僅かに存在する湧き水だって、やがては全て消滅する…という事になります。建設業者にとっては、水( 湧き水 )に突き当たるというのは一番厄介な障害なので、今のように殆ど雨水が滲み込まないコンクリート大地こそが最善なのでしょうが、それでは自然から遠いのもまた事実です。 『 千川用水の話 』 長崎村では結局、この細々とした谷端川の水だけではとても足りなくて、1696年( 江戸時代の元禄9年 )に村まで延びた、千川用水( 千川上水とも呼ばれます )からの水を引くようになります。 今の千川用水は、既にその全体が地下に潜らされてしまって「千川通り」という道路になっています。 そしてその「千川通り」が、あの南長崎6丁目の「元スカイラーク今はJ's ガーデン( レストラン )」の前で突然直角に曲がってしまって、そのどちらの道もが共に「千川通り」と呼ばれる…という不思議さは、その元々の千川用水があそこでちょうど直角に曲がっていたからなのです。 ( 元々はまともに繋がっていなかった「中野通りと千川通りを辛うじて結ぶ細い2本の連絡路」が、20年程前に統合拡張され、道の境界が消滅した為に、この場所で突然、道路の名前が変わる…という妙な事になりました。) 古い名前を残したい側と、機能優先側の鬩ぎあい…というか妥協の結果なワケです。 千川用水は江戸時代の中頃に作られたので、用水と言っても実際には自然の川と同じような光景でした。ケヤキや桜の並木、そしてススキや野ばらまで植えてる千川の土手には、キツネやタヌキ、そして川には大きなカワウソまでが棲み付いていて、時々人間を化かしていた…という、「昔の童話」か「となりのトトロ」の世界みたいな話が、この町に住む田島五郎さんという人によって伝えられています。 それは北原( 今の千早4丁目で「きたっぱら」と読みます )に住む桶屋の本橋半五郎さんという人が、千川の土手を歩いて家に帰る途中、北原橋( 今の千早高校前の北端辺り )の所で大きなカワウソに襲われてるムジナの子を助けます。 ムジナの子は半五郎さんにお礼を言って雑木山の方に帰って行きます ( 千早高校グラウンドから奥は当時小高い丘だったようです ) 。 しばらく経った日の真夜中、頼まれていた桶作りの仕事がなかなか進まなくて困っている半五郎さんの仕事場に、ムジナの子が訪ねてきて戸を叩きます。 半五郎さんが戸を開けると誰もいません。 戸を閉めて少しするとまた叩く音がします。 さては誰かの悪戯だな?と思って半五郎さんが勢いよく戸を開けると、あのムジナの子が勢い余って家の中に転がり込んできます。 半五郎さんが訊いてみると、ムジナの子はいつも雑木山から半五郎さんの家を見ていたらしく、今夜はいつまでも灯が付いているので何かあるのか?と思ってやって来た…と答えます。 半五郎さんが仕事場へ招き入れると、ムジナの子は一緒に仕事を手伝ってくれ、そのおかげで漸く桶が仕上がります。 半五郎さんはそのお礼にと、小さな桶をもう一つ作ってムジナの子に与えます。 ムジナの子は喜んでそれを貰って帰って行きます。 その後、ムジナの子はその桶に乗って、月夜の晩でも安全に千川で遊べるようになりました。 …という可愛らしいお話です。 これは「ちいさい桶」という題なのですが、内容としては「ムジナの恩返し」みたいな話です。 ムジナとはむろんタヌキの別名なのですが、タヌキはその危機に際して、人の脳にハッキリとした映像イメージを送り込む、強いテレパシー能力を持つらしいことが、最近では色々分かって来ていますので、昔の人たちのするこうした不思議な話を、頭から馬鹿にするのは多分間違っているでしょう。全部がそのまま本当ではなくても、何らかの事実があった…という可能性は十分にあります。 人間の直ぐ近くで暮らしている動物たち ( ペットはその最たるものですが ) は、完全に人間社会と切り離された正真正銘の野生生物とは全く異なった環境下にあるため、そうした動物たちは人間が動物たちのことを理解している以上に、人間のことをよく知っていて、それに適応しています。 野良猫やカラス、クマネズミを見て下さい。まさにそうですよね? 人間はそうした動物のことを良く知らなくても生きてゆくのに困りませんが、動物の方は人間の事を良く知らないと上手く生きてゆけないからです。 だから、それを生まれた時からずっとやってる、つまり事実上の「早期教育」で育った小さな動物たちが、人間のことを一体どれぐらい詳しく知ってるかを想像すると、空恐ろしくなってきます。 もしタヌキに口が利けたとすると( 或いは、口を利いた…と人間が思い込むようなイメージをテレパシーで送り込むことが出来たのだとすると )、このタヌキの子がこの話の程度の事を半五郎さんに伝えたとしても、別にそれほど不思議なことではないでしょう。 これは逆に、この半五郎さん自身が潜在的に、今で言うところのアニマル・コミュニケーター ( ジョイス・リークさんや野生のティッピみたいな ) 能力の持主だった…ということも大いに考えられます。 実際のアニマルコミュニケーターと動物たちとのコミュニケーションは、一種のイメージ・テレパシーによるもの…というところまでは既に判ってますので、人間と動物はその方法でなら、或る程度の会話をする事が出来ます。むろん会話と言っても、それは言葉によるものではありませんし、能力差もありますが、とにかくコミュニケーションを取れることは確かなのです。 もしそうでなかったら、人間はそもそもペットを飼える筈がありません。あれは少なくとも人間の言うことに動物が応えられるからこそ可能なのです。 それはしばしば一方通行ですが、そうでない場合も勿論あり、それが完全に双方向になれば、人間と動物は十分に意志疎通が出来る…ということになります。犬を見れば大抵はそうだと思いますよね? 猫や馬にだってそんな風に出来る人は多分いっぱい居るでしょう。 人間側が、動物の発するイメージをどう解釈するかは、個人の能力差に影響されますが、少なくとも特定の能力者にはそれが軽々とできるのは確かです。実際にキャスリーン・ベラルドさんという驚異的な人だっています。彼女はまるで「ドリトル先生」のように、動物と話すことが出来ます。 歴史的にも、聖フランシスコ( 米国サンフランシスコ市の語源となった聖者 )の事例が有ります。 こうした事実を全く無視して「そんな馬鹿なことが…」という態度で全部を無視してしまうのは、「マックロクロスケを見た!」…と言うメイちゃんを直ぐにウソつき呼ばわりするのと同様、完全に間違っていると思います。( ← この例は適切じゃないだろ!…ってまた突っ込まれそ… ) ペットや烏みたいに、子供の時からずーっと人間社会と接して暮らしてる動物たちは、云わばみんな逆ターザン状態、或いは、逆「野生のティッピ」状態なのです。彼らは動物なのに「人間の国」で育ってしまった動物版「帰国子女」みたいなもので、人間の国のことをとても良く知ってます。人間は多分、動物たちのことを馬鹿にして「少しばかり見縊り過ぎて」います。( ペットを飼ってる人にはきっと、この事は良く分かるのではないでしょうか? ) 彼らは実は魔法をかけられて口が利けないだけの人間…だと思って日々接した方がよい…と言う人だっています。手話でなら人間と会話できるチンパンジー( ボノボ )や、人間と本当に意味の通る会話の出来るオウムが居る…という話もあります。 おっと、話が大分逸れてしまいましたね。もとい! でも月夜の晩に小さな桶に乗って遊んでるムジナの子は、大きなカワウソにとって何の苦もなく捕まえられる絶好の獲物ではないのか?…とも、どうしても思ってしまうのですけどもネェ。 因みにこの話に出てくる半五郎さんというのは、この話の伝え手;田島五郎さんのお父さんの親しかった実在の人物だそうで、大正15年発行の住宅地図には、この半五郎さんの家が「本橋半五郎」として、ちゃんと載っています。( 上の地図にも載っていたので、図示しておきました。) 尚、長崎村の生き字引と言われてた田島五郎さんは2003年に亡くなられました。 御冥福をお祈りいたします。 合掌 さてさて、千川用水からの取水は、当時の谷端川の源流だった粟島神社よりもっと北の、今の千川交差点の辺りでされて、谷端川の通る谷戸へと大量の水が流し込まれました。 これによって谷端川の長さは上流に数百メートル程も延びましたが、この部分は厳密には千川用水で、谷端川の開始点とは言えないかも知れません。下流にはもちろん途轍もなく延びて、もはや「ワジ( 雨の降った時だけの川 )」ではなく「定常的な川」に昇格した谷端川は、巣鴨・板橋を越えて大江戸八百八町へと入り、遂には神田川にまで届きます。 この取水によって、それまでは湧き水の流れ出す小川沿いでだけ極く僅かに作られていた長崎村の水田は、一気に何倍もの面積にと拡がりました。それが先程の図の、緑色の外側の「水色の部分」にあたります。もちろん収穫量は一気に上がりました。 『 葛ヶ谷分水の話 』 千川用水からの取水口は、実はもう1つあって「葛ヶ谷( くずがや )分水」と呼ばれていました。 籾山牧場の西側には妙正寺川の支流となる小さな湧き水があって、葛ヶ谷村( 現在の新宿区西落合 )はその谷戸集落でした。 因みに、ここには「猫のお地蔵さん」で知られる真言宗のお寺「自性院( じしょういん )」があって、前述の「慶徳屋」の立派なお墓もあります。 「葛ヶ谷分水」はこの村への取水口です。件の清戸道を挟んだその北側は「ヤマ」と呼ばれ高くなっていたようで、西落合は現在でも南側の低い傾斜地です。五郎窪の端のこの場所に湧き水の出る条件は十分に揃ってました。( 中野通りと千川通りが今のように繋がる以前、この場所には畳8帖ほどの湧き水の池があって、そこに「西原不動尊」が置かれていたそうです。) 葛ヶ谷分水によってこの南側にも広い水田地帯が出来ましたが、長崎村の土地は籾山牧場の直ぐ南側まででしかなかったので、葛ヶ谷の最上流にほんの少し水田を増やせたこと以外には、余り恩恵を受けることが出来ませんでした。 でもこの取水によって南隣りの葛ヶ谷村の人たちは、とても助かったのでしょうね。 因みにこの千川用水は、中央線「武蔵境駅」の北側にある「境橋」という場所で玉川上水から分流取水された高架用水( 土手を高くした人工河川 )で、「上井草駅」を通って南田中( 高野台 )、中村橋、練馬、桜台、江古田、…と来て、長崎村の前述の場所で90度北にと折れていました。( もっと詳しく分かるページは、右のメニュー内にあります ) 千川用水は当初、「玉川上水」と共に江戸を潤す「生活用水」としても使われていました。 が、「こうした人工河川の多用が江戸の地脈を乱し、江戸の火災多発の原因になっている」…という奇妙な学説を江戸幕府が信じ込んだ為に、開通からたったの数十年で「生活用水としての使用」は止まり、以後はただ農業用水としてだけ利用されました。[ この当初の使用目的故に、古い時代での呼称「千川上水( 汚してはならない上水の意味 )」が残っているもの…と思われます。] その元々の「玉川上水」の方は、「羽村…あの工藤静香の生まれ育った町です( 笑 )…」の取水口で多摩川から分流され、「拝島駅」を通って立川市・小平市を抜け、小金井の「江戸東京たてもの園」と「スタジオ・ジブリ」本社の間を擦り抜け、三鷹の森「ジブリ美術館」の直ぐ側を通って、甲州街道沿いに東に向かい、新宿御苑の「大木戸門」( 四谷4丁目サンミュージックの近く )にまで至る長大なものでした。( 何だろかこのミーハーな説明… ) 「多摩川」の源流地帯は、むろん奥多摩の「御嶽山」です。だから長崎村の人々の御嶽山への「水乞い」行脚は、論理的にも合点のゆく話…だということになります。 そしてまた、東京都全体の形が、この奥多摩源流地帯を含めた奇妙に細長いものである理由は、言わずもがな「水利権行政」ゆえのことだったのです。 【 その他の情報 】 練馬大根…というのは実は練馬ではなく、元々は豊島郡「長崎村」の特産物だった。 ( 因みに桜の「ソメイヨシノ」種は豊島区駒込の植木屋「染井」氏の作り出したもの ) 東京府北豊島郡長崎村 …という昭和初期の呼び名 大正4年 武蔵野鉄道( 西武池袋線 )「東長崎駅」開設 ( 椎名町駅の開設はその9年後 ) 大正7年 今の東長崎駅北口の西側( 旧ファミリーマートからその背後の自転車置き場、キャンドウ、東急ストア、その背後のマンション、スポーツクラブのある一帯 )には、この頃日産自動車の前身である「快進社」の工場が移転してきました。 ここで作られた車こそが日本の国産車の第1号でした。( トヨタではなかったのですねぇ ) 「脱兎の如く走る車を」ということで「ダットサン」のブランドが使われたのだそうです。 この1年後の大正8年5月にはバス会社「ダット自動車」が設立され、目白ー豊島園間を走りました。もちろん「東長崎」と「練馬」経由です。 下落合の歴史に凄く詳しいお隣りの「わたしの落合町史」さんからの情報によると、今のより全然ちいさなバスなのに、1日に1700人以上もの利用者があったようです。詳しくはこちらへ。 ダットサンの従業員の落とす飲食費などで、東長崎は大いに繁盛しました。 大正11年 耕地整理開始 ( この最初期に行った耕地整理は全国の手本となったそうで、長崎村の人たちの進取の気性が読み取れます。 大正12年 関東大震災 ( まだ農村だった長崎村には然程の被害がありませんでした。) 大正13年 武蔵野鉄道( 西武池袋線 )「椎名町駅」開設 富士元囃子とその創始者である造園師/農家? 本橋重太郎さん 高松2丁目にある豊島長崎の富士塚 ( 当時、富士山を信仰する「富士講」というものが日本中至る所にあり、実際に本物の富士山に登れない人たちの為に、富士山の溶岩を大量に運んで地元に小さな富士山のひな形を造る…という事が良く行われていました。前述の「おとめ山」東肩もそうですが、ここ高松町の富士塚は手入れが良いので国の文化財指定を受けています ) 五穀豊穰 悪疫退散 の獅子舞 5月第二日曜 9月第二日曜の大祭 ( 相当有名です ) 慶徳屋 [ 自性院( 猫寺 )に立派な墓有り] 平岡望見 「ちいさな桶」の挿絵を描いた版画作家の人です。 岩崎潅園( 常正 ) 御嶽山に在る長崎村の水乞い時の宿房であり介添人の原島御師( 原島家 ) 長崎アトリエ村 自由学園と羽仁もと子 女学校卒業生 岸田今日子 オノ・ヨーコ 他に 山本直純 羽仁進 日下公人 ☆・。・゜★・。・。☆・゜・。【 余談・ゆかりの有名人は町の華 】・゜。・。・゜★・。・。☆ 【 長嶋茂雄の居た立教グラウンド 】 東長崎駅北口には長崎十字会という商店街があります。 この商店街の北の突き当たり、現在千早高校 ( 旧牛込商業高校 ) の有る場所には、かつて立教大グラウンドがあって、毎日沢山の人だかりがしていました。 そこには当時、あの立教大・長嶋茂雄が居たのです。 昭和30年代の始め頃、東長崎駅北口から電車に乗り込む長島を、実際に見た人がいます。 そのミスターが当時、どんなに凄くてしかも面白い ( だからこそスターな ) 存在だったかを知らない人は、どうぞこちらをご覧くださいませ。( 笑 ) 【 本田宗一郎の靴屋さん 】 駅の南口を出て直ぐ右に曲がるとマクドナルドがありますが、その少し先の右側「山田靴店」は、あの「本田宗一郎」がずっと靴を直しに出していた腕のいい職人さんのお店です。 【 山下達郎が店番をしてたお店 】 そのもう一寸先の小さなレコード屋さん ( CDショップだってばさっ )「日新堂」は、何を隠そうまだ無名だった頃の山下達郎が、店番のアルバイトをしてたお店です。 きっともうその頃から沢山の曲を書きためていたのでしょうね? 【 山口百恵が生まれた家 】 その手前の角、持ち帰り寿司「伊勢屋」を右に折れた路地の突き当たり、線路際にある古い木造アパート「富士見荘」は、あの山口百恵の生まれた家です。彼女がお母さんと横須賀の瀬谷に移り住むのはその後の話です。 むろん実際に彼女の生まれた場所は「西武診療所」という名前の病院でしたが、西武診療所は先程の「山田靴店」前の路地を入って直ぐの左側、現在「橋本クリニック」の在る建物の全体でした。あの大きな地下駐車場は病院故のものだったのですね。 ( 下の写真をクリックすると更に詳しい紹介ページに跳びますよ。) …そして勿論、【 トキワ荘 】 旧・落合電話局の正面に在った「トキワ荘」は、もはや裏口だった路地のわきに小さな記念プレートしか残っていませんが… ここに手塚治虫、寺田ヒロオ、石森章太郎 ( 石ノ森になるのはその後のことです ) 、藤子不二雄、赤塚不二夫、鈴木伸一 ( 小池さんのモデル ) などの後期新漫画党 ( 後のスタジオゼロ ) メンバー、そして少女マンガの大御所・水野英子女史 ( 白いトロイカなど ) までが棲んでいたことは有名な話です。 石森・水野・赤塚の3人は「U・マイア」の名で「くらやみの天使」なども合作してました。( 後に石森・藤子・鈴木は「風田朗」のペンネームで「レインボー戦隊ロビン」を合作しています。) この時代のメンバー全員が寄せ書きしたカーテンを、何故か蒐集家の北原照久氏が持っています。( こんな風に紹介してるんですから、もっと大きな画像でアップして呉れれば良いのに…とか思ってしまいますよネェ? ) 当時、つのだじろうや貝塚ひろし、それから少女クラブの編集の丸山昭氏などは、家賃も払ってないのに毎日トキワ荘に居た…と言われています。お金の無いマンガ家たちは彼らからも家賃を取るべきでしたよね? あ…そうだ、ちばてつやも時々来てたみたいですよ。 ( 当時のトキワ荘というのはこんな感じだったようです。でもこれは本物ではなく、宮城県石巻市『 石ノ森萬画館 』所蔵 水野英子/監修、芳賀一洋/制作の精巧なジオラマです ) 【 サイバラ 】 最近も少し前まで漫画家の西原理恵子 ( サイバラリエコと読みます。「ぼくんち」という作品などでスゴク有名な方です ) がやはりこの町に住んでいたようです。 彼女の作品には「東長崎」が良く出て来ていたので、この町はサイバラファンには結構知られてます。 が、残念ながら私は彼女が何処に住んでたのか知りません。一体何処に居たんデショ? ( なお以上の方々は余りにも有名なので敬称を略させて頂いてます。) 【 東長崎機関 】 ★ 余り知られてませんが、現在の東長崎には有望な「フリーのジャーナリスト」が数多く棲んでる様子です。一般的に言って後に名を成す人たちというのは、トキワ荘の面々でもそうですが、その棲んでる当時の近隣では「一体何をしてるのか分からない唯の貧乏人」にしか見えないもののようです。なのでもし見付けたら今の内にせめてサインぐらいは貰っておいた方がよいかもしれませんね。( 今に「なんでも鑑定団」で大変な値段がつくことになるかも知れませんよお?) 何しろその名も「東長崎機関」…という、何やら恐ろしげな彼らの『民間諜報組織 』の根城が、この町にはあるんですから。( 笑 ) 諜報機関なのにも拘わらず、開けっぴろげにも「同名のホームページ」を Web に開設していて、東長崎北側の「せきざわ」や南口の「福しん」などでのその「秘密の活動内容」が開示されてるようです。( このページの右の緑色のメニューの中にも「東長崎機関」の入口がありますから探してみて下さい。) 東長崎機関の掲示板は最近荒らされ放題なのでどうも放置状態のようですが、東長崎機関のボスやメンバーはあのチェチェンやイラクの戦場などにもフツーに出掛けて行ってしまう果敢な人たちですから、バカにしちゃあ駄目です。それにここのサイトは、きっともう公安調査庁なんかにもしっかり見張られてるのに違いありません。( ^o^ ; かくして今の東長崎は、マンガ家ならぬ「独立系ジャーナリストの梁山泊( =トキワ荘 )」時代なのかも知れませんネェ。 あの「田中ニュース」で有名な田中宇も、メンバーでは無いけどこことは親交があるようです。 【 豊島区は創作エナジーの場かな? 】 昔のアトリエ村といい、トキワ荘といい、このフリー・ジャーナリストたちのトキワ荘( 実際の名は松美荘 )といい、長崎村にはそうしたエネルギッシュな時期の貧乏なクリエイター ( 芸術家 ) たちを引き寄せて結集する「重力か磁力」のようなものが有る場所なのかも知れません。 考えてみれば長崎村の隣りの雑司が谷村も大正時代の童話雑誌「赤い鳥」の拠点で、沢山の作家が集まっていました。またその南側の下落合には同時期に200人近い画家がアトリエを構えており、池袋モンパルナスと共に一大芸術家地帯を形成してました。そして中落合の目白文化村には、人気絶頂時の李香蘭 ( 山口淑子 ) の自宅までがあったようです。この辺の詳しい話は右メニュー内にある「わたしの落合町誌」さんのサイトをご覧下さい。 ( 余談の余談ですけど、大正時代と言えば岐阜県恵那市明智町という処に、大正時代の日本を保存した「日本大正村」というテーマパークがあるのって知ってます? 実はいま見付けたんですけどもね。いま読んだらこの明智町という地名は明智光秀由来だそうな。面白そうだけどちょっと遠いかな… ) 【 石ノ森章太郎のお墓 】 亡くなった石ノ森章太郎は今もトキワ荘に程近い祥雲寺 ( 要町 ) に居て、この町を見守っているようです。お墓はここです。( 実は昔々、石森先生は筆者の師匠で、筆者は先生の家に勝手に住み着いた押し掛け弟子でした。筆者はてっきり、先生はトキワ荘時代に急逝されたお姉さんと一緒のお墓に入られたのだろう…とばかり勝手に思い込んでいましたが、問い合わせてみた処どうやらそれは違ったようです。石森先生のお姉さんは、トキワ荘の吉永小百合と呼ばれていたとても綺麗な方で、初期の石森作品の素敵なヒロインは皆、このお姉さんがモデルとも言われています。合掌 ) ▲ 因みにこちらは、同じ豊島区の「総禅寺」( 巣鴨5丁目 )にある「手塚治虫」のお墓です。よーく見ると重厚な墓石の表には… 目を凝らしても分からなければ一度位お墓参りもしてみましょう。 みんな随分とお世話になった方ですものネ。 この同じ巣鴨5丁目の「本妙寺」には、江戸の歌舞伎や芝居小屋を保護したことで有名な遠山左衛門尉景元 ( 遠山の金さん ) のお墓が…。( いま上の「大正村」のサイトを見て初めて分かったんですが、この人と明智光秀が実は親戚だなんて全然知りませんでした ) えーと、ついでに言うなら夏目漱石、永井荷風、泉鏡花、小泉八雲、竹久夢二、羽仁もと子、荻野吟子、それから幕末のジョン万次郎と小栗上野介 ( 徳川埋蔵金を隠しちゃった人 ) なんかのお墓も、池袋の「雑司が谷霊園」に全〜部あります。( 以上ぜ 〜 んぶ豊島区内です ) 豊島区って、もしかすると芸術を育てる揺り筺のような「気」の出ている場所なのかも知れませんよねえ? ( ← なら埋蔵金は関係ないだろっ! …てまた三村に突っ込まれソ ) おっと、最後になって話がいきなり長崎村から豊島区全体にまで拡がってしまいました。 余談だからまっいっか…とか思って…ハハ… ( ^ ^ ; でわでわ… 『 参考文献 』 豊島区立郷土資料館 発行 「長崎村物語」 ( 本文中の5点の絵地図は、上記から引用しました ) おしまい (C) Copyright 2006.9.4. by うつぎ・れい Web を含めて不許複製 著作権法上での例外を除き、この文書の全部または一部を 著者に無断で複写複製( コピー )することを禁じます。 とっぷぺーじ へ