[ 2019.4.12. 緊急追記 ;
が、どうにも奇妙なのは激突中心の真東 50m に、激突点より 20m ほど低い尾根の稜線から始まって北北西 ( 北西微北? ) 方向に向かい、何と 60m にも渡って一直線に伸びる相当に大量のエンジン部品の散乱区域 ( この赤く塗った部分 ) があるのだが …、今、たった今、驚くべき事実に気付いた!
● その位置と散乱部品量の多さから、これは紛れもなく、第 4 エンジンの全残骸である。
これは明らかに粉々に粉砕された第 4 エンジンの残骸なのだ。 ( 2 つ手前の尾根の一本唐松に激突して …では無く、自衛隊の空対空ミサイルによって粉々に粉砕された第 4 エンジンの残骸なのだ。 )
この説明図には 「 第 2 エンジン散乱部品 」 とあり、私もついさっきまでは、すっかりそれを信じ込んでいたのだが、改めて考えてみると、( 大して壊れてそうにも見えない ) 第 2 エンジンがその全部を撒き散らした事になってるらしいものの、いささか広範囲に過ぎ、部品が余りにも多過ぎるので、一体どうしてそんな離れた位置に、纏まって大量の第 2 エンジンの部品が、落ち得たのか? …を考え始めた。
するとどう考えてみても、第 2 エンジンの部品はそんな場所に、そんな風にはどうやっても落ちられる筈がない …と分かって来たのである。
つまり、そうした尤もらしいキャプション ( 説明 ) は、実はまるごとウソで、これは紛れもなく第 4 エンジンの残骸ほぼ全部が、落ちていた区域を示してるに違いないと判って来たのだ。
何故なら、第 2 エンジンの部品だけがそんな奇妙な有り得ない位置に、60m にも渡るそんな方向にそれ程大量に落ちてる筈は無いし、また位置関係から言っても落ちられる筈が無いし、大体がそんなにも大量に部品を落としたりしたら、第 2 エンジンは殆ど無くなってしまう。
おっと、一寸待った、ストップだ。 こんな説明の仕方では単なる同語反復に過ぎないし、いささか感覚的に過ぎる理由説明にしかならない。
もう少しちゃんと、考えた通りの事を書かないとイケナイ。 …で、詳細に議論すると、少々複雑だがつまりこうなる。
第 2 エンジンの付いてた左主翼を西南西に向けて落ちたジャンボ機の、「 機首の激突から左主翼の脱落 」 までのどの瞬間に第 2 エンジンが脱落して跳ね飛んだと仮定しても、第 2 エンジンの直ぐ側の右側 ( つまり東側 ) には、今しも圧縮され横に膨張しつつ崩壊してゆく巨大な機体が、あたかも塔の如くに聳え立ってる最中だったのであり、第 2 エンジンがその障害物より東に在る ( 赤色の ) 「 エンジン部品散乱区域 」 の端っこにさえ、到達出来た可能性はほぼゼロ …と見做せる。
仮に第 2 エンジンが跳ね飛んで当該区画の東南端に辛うじて落ち、そこから部品を撒き散らしつつ北側斜面を北北西方向に転がり落ちて行った …などと無理矢理仮定した処で、逆に、もし激突点からそこまで第 2 エンジンが本当に奇跡的に跳ね飛んだのなら、その跳ね飛んだ速度成分 ( 勢いと方向 ) の故に、その部品を撒き散らしながら転がり落ちるべき方向は、当然そのままの方向、つまり東側斜面に転がり落ちてるのでないと、まるで理屈が立たない。 しかし実際には、これらの部品は北北西方向に向かって 60m も一直線状に落ちていたのである。
よって、明らかにこれは、( 地表激突で脱落した第 2 エンジンの …ではなく ) 空対空ミサイルによって上空で破壊され、そこでの北北西 ( 飛行方向 ) 成分を 「 運動量 」 としてそのまま保持しつつ落ちて行った 「 第 4 エンジン残骸部品の落下区域 」 である …と断定するのが正しい。
事故調査委員会は無論、これが第 4 エンジンの残骸だとは気付いてた筈だが、そう認めると空対空ミサイルでの撃墜事実が明るみに出てしまうので、白々しくもこれを第 2 エンジンの散乱部品 …とウソ説明して来たのであろう。
従ってこの 「 第 4 エンジン全残骸の本当の落下位置の検出 」 は、自衛隊と共謀しての 「 事故調査委員会の説明の大ウソ 」 を完全に証明する新しい論理的証拠となったワケである。 ]
もとい!
( 青山透子氏が大変な労苦を以て作成した、当の図自体をここに転載 引用するのは、どうにも節度を欠くので転載しない。 青山氏の最新著書 「 遺物は真相を語る 」 の 82 〜 83 ページを参照のこと。 これは簡単に説明すると上のと同じ事故調査委員会の公表図 に機体各区画毎の乗員 乗客の遺体発見位置を青山氏が逐一書き込んだ図である。 )
右側主翼が大きく 2 つに折れながらも、( 大きく下方に谷あいの空間が広がってたにも拘わらず ) 機体全体の慣性速度に反して西南西方向には殆ど沿わずに、同じく尾根の東側急斜面を菅ノ沢第 3 支流近く ( と途中 ) にまで滑り落ちてることからは、右側の主翼のこれらの部分もまた、少なくとも激突の直前までは機体から完全には外れておらず、機体と一緒に墜落してた事が分かる。
右側の主翼の内側に付いてた第 3 エンジンは、激突直前の機体の西南西方向への進行速度と慣性をそのまま受け継いでいて激突中心から西南西に 120 メートルも進んだ位置で落下しており、尾根の稜線を越えて逆側 = 西側の急斜面を滑り落ち、菅ノ沢第 4 支流にまで転がり落ちてる。
が、それは機首激突位置より 40 メートルも標高の高い尾根のしかも松の樹冠に引っ掛かって落ちてるワケで、この第 3 エンジンが機体から脱落したのは、激突そのものによってではなく、その直前に空中で機体から分離していたものであるからだ …と考えられる。
何故なら、もしも激突で脱落したのなら、第 3 エンジンの付いた右翼を下にしてほぼ真横に近く傾いた状態で 123 便は地表に激突してるから、丁度そのエンジンがふっ飛ぶ方向には圧縮されて損壊してゆく機体そのものが巨大な壁のように有ったワケで、そうなら第 3 エンジンは西南西 120 メートルの位置に落ちられる筈が無いからである。
( ジャンボ機の主翼は 45 度もの後退翼である為、第 3 エンジンが付いたままだったなら、それが尾根の地表に激突するのはその分だけ遅くなる。 )
事故調査委員会に依れば、右の主翼外側の 「 第 4 エンジン 」 は墜落場所から東南東に 1000 メートルも離れた尾根の一本唐松に激突し、粉々になって脱落した為にエンジンらしい形状も全く残っておらず、遂に回収出来なかった …という信じがたい説明が為されてるらしい。
( ジャンボ機の巨大で強靱なエンジンが唐松の木にぶつかって粉々になった …だと? 馬鹿言え。 ちゃんと御巣鷹の尾根に残骸が大量に落ちてるではないか? )
が、もしも右側主翼の端から 10 メートルの位置に付いてる第 4 エンジンが、粉々になる程の衝撃を受けたなら、123 便の右主翼はその場で破壊されて折れ、元々が左右のエンジン出力に差を付け、機体をほぼ横倒しにすることで機体の機首上げ ( の代わりの左急旋回 ) 等を辛うじて実行していた筈の 123 便は、その右翼半ばへの衝撃で急に右側 ( つまり真下 ) に向かって急落する機体を立て直す術などあろう筈がない。
もしそんな事が本当に有ったのなら、123 便は御巣鷹の尾根の東南東 1000 メートル程に在る 2 つ手前のその尾根と次の尾根との間にある谷間へと、真っ逆さまに墜落する以外になく、公式説明の中の 「 一本唐松への激突で水切りの如くに機体高度が少し持ち直し … 」 等という珍現象は誰が考えても絶対に起こる筈がなく、123 便はそもそも御巣鷹の尾根の墜落現場まで辿り着けた筈が無い …のである。
恐らくは御巣鷹の尾根に差し掛かる寸前にサイドワインダー ( ミサイル ) を撃ち込まれて粉々になって消滅し、残骸とて見付からずに終わった第 4 エンジンについて、何か言い訳せざる得ないが故の苦し紛れの説明 …だったのだろうが、子供騙しにしても余りにもお粗末に過ぎる。
[ 日本はこうした全くのイイワケが、そのままマスコミに ( マスコミに科学的分析力が全く無いために ) 通用してしまう所が怖い。 ]
よって実際の 123 便は、東南東方向 2 つ手前の尾根と 1 つ手前の尾根の間の谷あいに墜落 …もせずに、御巣鷹の尾根にまでは辿り着いて、其処で右に 75 度も傾いた状態のまま、ほぼ真っ逆さまに機首の右側から尾根に激突したもの …と考えられる。
45 度もの角度が付いてるジャンボ機の後退翼の故に、機首が尾根に激突しても尚、直接地表にはなかなかぶつかり得ない右主翼は、御巣鷹の尾根の位置に達するまではとにかく機体と一緒のままで、それ以前には全然折れてなどいなかったらしい。
事故調査委員会の言うように、600メートルも離れた一つ手前の尾根を抉って右主翼が空中で折れてしまったのなら、そのまま不規則に回転して空気抵抗に曝されるだろう折れた主翼の右端が、ただ慣性だけで御巣鷹の尾根の北側斜面にまで着いて来られる筈がないのである。
が、何故か尾根への激突直前に、唐突に機体から脱落し、しかもその大きく 2 つに折れた右主翼の各々と、右主翼に付いてた第 3 エンジンとは、それぞれが全くバラバラの位置に落下してる。
そして同じ右翼に付いてた第 4 エンジンは、公式説明では陰も形も無く、( 本当は激突点の 50m 手前に幾らでも残骸が有るのに ) 遂に最後まで見付からないままだ。
更に更に、大きく 2 つに折れた右主翼 は、奇しくも消えた 「 第 4 エンジンの取り付け位置 」 で大破し、分断されているのである。
この事を左主翼の残骸と比較すると、左主翼 は分断もなく、激突した瞬間の機体の傾き、左主翼の取り付け角度さえそのままに、ほぼ原形を保ったままで激突点の西南西に真っ直ぐ横たわってる。
更にまた右主翼の惨憺たる有り様の全体は、激突した瞬間に左主翼からは脱落しながらも、全く同じように東側急斜面を転がって菅ノ沢第 3 支流のほぼ同じ位置で、仲良く並んで発見されてる、第 1 、第 2 エンジン の様子ともエラく違うのである。
何れにしても事故調査委員会の公式説明では、123 便の右主翼は、一本唐松のみならず、そこから更に西北西 500 メートルの尾根の地表 ( 標高 1600 メートル ) をもまた、右主翼がその先端で穿った …という破廉恥かつ厚顔無恥な大バカ説明になっている。
そして 123 便は、其処での失速 ・急落下 ( 高度 1600 メートルからの失速 ・急落下? ) にも拘わらず尚も持ち堪えて、更に西北方向へ 600 メートルも飛行し、御巣鷹の尾根にまで辿り着いた事になってる。
( 御巣鷹の尾根の墜落地点の標高だって 1570 メートルもあるんだゾ、ヲイ?
落合由美さんの証言では 「 長い急降下の後の激突 」 なのに 1570 メートルの高さの尾根に落ちてるんだゾ、ヲイ?
本当にそんな説明でいいのか? )
● 実際に御巣鷹の尾根で墜落したのだから、123 便が其処まで飛び続けた事だけは、確かだ。
が、殆ど横倒し状態の機体で、左右のエンジン出力の差だけでの機首の左急旋回を転用して、機首をホンの少し上に向けたとしても、そんな姿勢での主翼の揚力は本来的な揚力としては全然働かないし、肝心の右外側のエンジンが 1000 メートルも手前の尾根で本当に脱落して無くなってたのなら、もはや左右のエンジンの出力差を駆使しての操縦、なんて事は全く不可能になってた筈なので、事故調査委員会のしてる説明は「子供騙し」どころか、子供さえ騙せないレベルのデタラメであると断言出来る。
● 機体散乱位置見取図に青山氏が記入した遺体発見位置の全体から読み取れる事の分析
123 便の機体は殆ど横倒しの右に 75 度程も傾いた状態で機首右側から尾根の地表 に激突し、その衝撃で機首と A 区画、 C 区画、 D 区画、が相次いで破裂するように潰れ、B 区画は ( 主翼前縁取り付け位置で ) 他の部分よりは強度が高かったのか、一応の形を保てたものらしい。
その故に B 区画に居た乗員 ・乗客はある程度の範囲内で遺体が纏まって発見されてるのだろうが、このB 区画が尾根の更に高い位置に反転してひっくり返った状態で見付かった …という事からは、2 度に分かれたその激突での凄まじい加速度は全部、その区画内に閉じ込められた状態で受け止められてるワケで、却ってより過酷な状況を経たもの …と考えられる。
機首部分と A 区画部分の 64 名、 C 区画部分の 157 名、 D 区画部分の 89 名の遺体が機体の残骸から遥かに離れた非常に広い範囲に散乱してた事からは、これらの区画部分の機体が激突の衝撃で潰れながら破裂する形で破壊され、乗員 ・乗客がそこまで飛ばされた …という事である。 ( この散乱状況の詳細については青山氏の本の 82 〜 83 ページを照合しされたし。 )
が、その事は必然的に 「 衝撃でも外れないシートベルト 」 によって、多くの人々が瞬間的に腰の位置で身体の上下を引き千切られた為に、それほど広い範囲に散乱したもの …とも考えられる。
何にせよ、乗員 ・乗客は全員が不時着に備えてシートベルトをしっかり締めてた筈であり、旅客機の座席は恐らく当時も、床の座席用レール上で位置決めされてボルトで固定されてるだけだったに違いないが、( 離着陸やダッチロール状態での前後左右の揺れ、胴体着陸やエアポケットでの上下振動にも備えて ) 前後左右上下、汎ゆる方向への加速度に対して十分な強度でシッカリと固定されてるから、機体から離れた位置で見付かった遺体の殆どは、激突した瞬間にシートベルトで腹部を切断されてしまってた筈で、到底生き延びる事は出来なかったろう。 ( 落合由美さんの証言によると、客室乗務員用の座席は機首に背中を向けて逆向きに固定されてた為、このような激突では最も安全でシートベルトによる身体の切断は起こり難かった。 落合さんは乗客として乗ってた為、普通の席 = 機体左側 最後尾から 3 列目の通路側 に座ってた。 その斜め前の座席列番号 54 が吉崎博子さんと吉崎美紀子さん母娘、斜め後の座席列番号 60 が川上慶子さんだった。 )
但し、座席の固定自体は頑丈でも客室の床そのものが激突の瞬間に衝撃で破壊され崩壊した場合、その上に固定されてる 3 つ 1 組の座席が床 ( のレール ) から離脱し、そのまま機体の外に ( 要するに乗員 乗客が座席ごと空中に ) 放り出された …というような可能性は十分に有り、そのプロテクターの如く座席を背負ったままで放り出された人々が、上手く御巣鷹の尾根の北側急斜面 に落ちた …というケースでだと、その斜面落下時の座席の向きと乗客の姿勢次第で、殆ど無傷のまま生き延びられた人々の存在した可能性が実は有ったかも知れない。
( 実際にこの区画に座っていたと思われる、機体から最も遠い場所にまで投げ出されてる状態で発見された元宝塚の北原遥子 さんは、外見的には何の損傷も無い奇跡的な完全遺体で発見されてる。 死因は脳挫傷と内臓破裂。 )
つまり C 区画、D 区画にも墜落直後の生存者が、相当数居た可能性は十分あったかも知れないのである。
[ というのは、幾つかの点でやや真偽に疑問はあるものの、123 便墜落の翌朝未明 ( 4 時頃 ) に早々とこの北側急斜面にまで辿り着き、それから 5 時過ぎ頃迄、約 1 時間強の墜落現場の状況を実際に目撃した M 氏 …という若者 ( その後の報道の余りの異様さから匿名にしてるらしい長野県民 / 民間人 ) の生々しい証言が実は有って、ここでは墜落直後の生存者の有無に話を限るが、それに依るとその朝 4 時の時点では、この北側急斜面上に 40 〜 50 人もの生残者が居て呻いてる状況だった …というのである。 詳しくはこちらに ]
かくして、墜落後にも生き延びてた人々の居た可能性があったのは、上の条件での C 区画、D 区画と、実際にも墜落直後にはまだ生存者の多々居た最後尾の E 区画だけ …だった、という理屈になる。
では実際に墜落 ・激突直後に生存者の多々居た、最後尾の E 区画は一体何故、不時着ではなく機首からの想像を絶する墜落 ・激突にも拘わらず、生き延びる事が出来ていたのだろうか?
墜落現場の当時の写真と上の現場見取図からは、御巣鷹の尾根の墜落現場に見える東端から西南西への約 50 メートルの地肌露出区域 が、実際の激突点であったのは絶対に間違いない。
尾根を遡るように西北西に延びてる樹木切損 ・倒壊区域が、激突して跳ね返って裏返って砕けた機体 B 、C 、D 部分がバラバラに落下した場所である。
機首部分と A 区画は激突の瞬間に砕け破裂したろうが、地表は目の前だから、機体が倒壊させた樹木の範囲より外にまで遺体が散乱する事は殆ど無かった。
( が、無論その直後に生き延びてた人々など、この A 区画には居た筈が無い。 )
B 区画は、激突の瞬間に機首部分と A 区画が潰れつつ周囲の針葉樹林を薙ぎ倒した事でやや衝撃が弱まった為、また主翼の取付部分に位置していた? 為にか、機体の各ドア位置で横方向に折れる形で分断された機体が、一応の囲いになってその区画内の人々の身体が外に飛び出すのを何とか防ぎはしたものの、やはり B 区画での衝撃は凄まじく、81 名中、完全か完全に近かった遺体はたったの 14 体のみだった。
C 区画と D 区画に居た人々の遺体が地肌露出区域の直ぐ近くから尾根の更に高い位置や、北側の急斜面の裾にまで広く散乱してる事からは、C 区画と D 区画の周りの機体が、激突の瞬間に尾根の地表から数十メートルもの高い位置で、窓部分やドア部分から破裂するかの如くに壊れて、3 つ 1 組の座席ごと空中へ投げ出されたか或いはシートベルトによってバラバラに引き裂かれたかの人々の遺体が、まるで尾根と北側急斜面に叩き付けられてるかの如く、全く転々バラバラな位置に飛び散っていたのが見て取れる。
にも拘わらず、機体最後尾の E 区画は、激突の瞬間に 「 より前方のどの区画 」 よりも尾根の地表から高い位置に在った筈にも拘わらず、最後まで一纏まりであり続けたのにも拘わらず、激突の瞬間の機体の 「 西北西への速度成分 」 には殆ど影響されなかったかのように、激突中心位置から北にたったの 30 メートル、しかも尾根より 20 メートルも低い北側急斜面上にストンと落ち、そのまま急斜面上の松の植林を薙ぎ倒しつつ滑り落ちて、菅ノ沢第 3 支流に達して止まってるのである。 ( 激突地点の右前方に延々と 200 メートルも延びてる 「 樹木折損 倒壊区域 」 というのがその経路である。 )
一体全体何が起きたのか?
考えられるのは、御巣鷹の尾根に激突するまでの E 区画は未だ機体から離脱など全然しておらず、激突の瞬間 E 区画は、其処より前方にある 機首、および A 、B 、C 、D の全区画が、凡そ数秒間掛けて前方から順に潰れてゆく事での衝撃吸収、つまり物凄い緩衝効果の恩恵を総て最大限に受けると共に、123 便が殆ど横倒しの状態 で機体の左側を進行方向に向けて地表に激突していってるが故に、E 区画はその直ぐ前のドア位置で機体が左側昇降口 ( 昇降口部分が一番折れ易い ) からパックリと口を開けて割れる事で、その機体をへし折るに必要な破壊エネルギーが 「 E 区画が本来なら機体から受け取ってた筈の西南西方向への運動成分 」 をほぼソックリ吸収するように働いた為に ( 機体右側が激突で先に圧縮されるこの状態で機体が折れたなら必然的にそうした機序である ) 、折れた機体最後尾の E 区画は西南西方向への運動成分をほぼ全部失って、そのまま ( 尾根の地表から恐らく 30 メートル以上の高さから ) ほぼ真下に ( ストンと落ちるように ) 落ちたと思われる。 ( 「 仮説ヘリポート 」 とあるのが激突の中心、紫色の丸印は、機体最後尾の E 区画が折れて落下した最初の位置である。 )
無論その高さから機体最後尾が垂直に平らな地表に落ちたなら、本来はまず無事には済まなかった筈だが、幸いにもそのストンと落ちた位置は 「 御巣鷹の尾根 」 直ぐ脇の北側急斜面上 であり、しかも植林から間も無い松林の上だった。
その為、E 区画はまさしく奇跡のように、然したる衝撃とて受けずに若い松林を薙ぎ倒しつつ滑り落ちて、菅ノ沢第 3 支流にまで到達して止まった …のであると考えられる。
改めてこの過程を確認すべく、生還者の中で最も詳細に墜落時の証言をして呉れてる落合由美さんの言葉と照合してみると、上の分析でほぼ一致するように思われる。
……… [ 以下、落合由美さんの証言中 該当部分の抜粋引用。 ] ………
そのとき、窓の外のやや下方に富士山が見えたのです。とても近くでした。このルートを飛ぶときに、もっとも近くに見えるときと同じくらいの近くでした。夕方の黒い山肌に、白い雲がかかっていました。左の窓の少し前方に見えた富士山は、すうっと後方に移動していきます。富士山が窓のちょうど真横にきたとき、私は安全姿勢をとって、頭を下げたのです。
…… 中略 ……
安全姿勢をとった座席のなかで、体が大きく揺さぶられるのを感じました。船の揺れなどというものではありません。ものすごい揺れです。しかし、上下の振動はありませんでした。前の席のほうで、いくつくらいかはっきりしませんが女の子がキャーッと叫ぶのが聞こえました。聞こえたのは、それだけです。
そして、すぐに急降下がはじまったのです。まったくの急降下です。まっさかさまです。髪の毛が逆立つくらいの感じです。頭の両わきの髪がうしろにひっぱられるような感じ。ほんとうはそんなふにはなっていないのでしょうが、そうなっていると感じるほどでした。
…… 中略 ……
まっすぐ落ちていきました。振動はありません。窓なんか、とても見る余裕はありません。いつぶつかるかわからない。安全姿勢をとり続けることしかできない。
…… 中略 ……
衝撃がありました。衝撃は一度感じただけです。いっぺんにいろんなことが起きた、という印象しか残っていません。回転したという感じはありません。投げだされたような感じです。衝撃のあとも安全姿勢をとっていなければいけないのですが、私はもう怖くて顔をあげた。その途端、顔にいろんなものがぶつかってきました。固いもの、砂のようなものがいっぺんにです。音はまったく記憶にありません。音も衝撃も何もかもが一度に起きたのです。衝撃が終わったあとは、わーっと埃が舞っているようでした。目の前はもやーっとしているだけです。墜落だと思いました。大変な事故を起こしたんだなと思ったのは、このときでした。
……… [ 以上、落合由美さんの証言中 該当部分の抜粋引用 ] ………
● 備考
以下は参考までにウィキペディアにあった事故調査報告書を元にして書き下してる 「 墜落プロセス 」 解説部分の引用である。 全文は左のリンク文字をクリックされたし。
----- 以下、ウィキペディアからの引用 -----
37分、機長がディセンド(降下)を指示するが機首は1,000m余りの上昇や降下を繰り返すなど、不安定な飛行を続けた。38分頃、これを回避するためにランディング・ギアを降ろそうとするが、油圧喪失のため降ろせなかった。40分、パイロットはランディング・ギアの自重を利用してギアを出すバックアップシステムを用いてこれを降ろした。この操作によって機体は右に大半径で旋回しながら降下し、同時にロール軸の振幅が縮小して多少安定した。
46分、高濱機長の「これはだめかも分からんね」との発言が記録されている。やがて機体は山岳地帯上空へと迷走していき、47分頃からは彼らの中でも会話が頻繁になり、焦りが見え始めていた。右、左との方向転換が繰り返し指示される中で、操縦している副操縦士に対して機長が「山にぶつかるぞ」と叫ぶなど、緊迫した会話が数回記録されている。この時機体は6,000ft (1,800m) 前後をさまよっていた。48分ごろには航空機関士が、操縦する副操縦士に「がんばれー」と励ますとともに、たびたび副操縦士の補助をしていた様子が記録されている。この頃からエンジン出力(パワー)の強弱で高度を変化させる操縦を行い始めたと思われる。機長の機首下げの指示に対して副操縦士は「今舵いっぱい」と返答している。
49分頃、機首が39度に上がり、速度は108kt (200km/h) まで落ちて失速警報装置が作動した。このころから機体の安定感が崩れ、何度も機首の上げ下げを繰り返した。この間、機長が「あーダメだ。終わった。ストール(失速する)」と発言するまでに追い詰められながらも、諦めることなく「マックパワー(エンジン出力全開)、マックパワー、マックパワー」などと指示し続ける音声が残っている。50分、「スピードが出てます スピードが」と困惑する副操縦士に機長が「どーんといこうや」[※ 17]と励ます音声が残っている。機長の「頭下げろ、がんばれがんばれ」との励ましに対して副操縦士は「今コントロールいっぱいです」と叫んでいる。この頃速度が頻繁に変化し、不安定な飛行が続いていたために、副操縦士が速度に関して頻繁に報告をしている。51分、依然続くフゴイド運動を抑えるために電動でフラップが出され[※ 18]、53分ごろから機体が安定し始めた。
54分、クルーは現在地を見失い[※ 19]、航空機関士が羽田に現在地を尋ね、埼玉県熊谷市から25マイル西の地点であると告げられる。その間、しばらく安定していた機体の機首が再び上がり、速度が180kt (330km/h) まで落ちた。出力と操縦桿の操作で機首下げを試みたが機首は下がらなかった。55分01秒、機長は副操縦士にフラップを下げられるか尋ね、副操縦士は「はいフラップ-10(今10度下がっているという意味)」と返答し、フラップを出し機体を水平に戻そうとした。
しかし55分12秒、フラップを下げた途端、南西風にあおられて機体は右にそれながら急降下し始める。55分15秒から機長は機首上げを指示。43秒、機長が「フラップ止めな」と叫ぶまでフラップは最終的に25度まで下がり続けた。45秒、「あーっ」という叫び声が記録されている。50秒頃、機長の「フラップみんなでくっついてちゃ駄目だ」との声に混じって副操縦士が「フラップアップフラップアップ」と叫び、すぐさまフラップを引き上げたがさらに降下率が上がった。この頃高度は10,000ft (3,000m) を切っていた。56分00秒頃、機長がパワーとフラップを上げるよう指示するが航空機関士が「上げてます」と返答する。07秒頃には機首は36度も下がり、ロール角も最大80度を超えた。機長は最後まで「あたま上げろー、パワー」と指示し続けた。
クルーの必死の努力も空しくJA8119機は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒ごろにはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、同23秒に右主翼と機体後部が樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt (640km/h) に達していた。
接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に70度傾いた。同26秒には右主翼の先端が稜線に激突し、衝撃で右主翼の先端と垂直・水平尾翼、第1・第2・第3エンジンが脱落、さらに同28秒には機体後部が分離した。機体は機首を下げながら前のめりに反転してゆき、18時56分30秒に高天原山の斜面にほぼ裏返しの状態で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には“PULL UP (上昇せよ)”との警告音に混じって機長の「あーダメだ」もしくは「もうダメだ」とも聞き取れる叫び声が記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声はのちに活字で公表されたが、この叫び声は判読不能とされていた。
墜落時の衝撃[※ 20]によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった。
即死した者も多かったものの、墜落直後の時点では客室後部付近を中心にかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある。
異常事態発生後のJA8119機
JAL123便として飛行していたJA8119機の飛行記録装置 (DFDR) と音声記録装置 (CVR) は、墜落現場から回収された。これらのデータによって、異常事態発生後のJA8119型機の飛行の様子が明らかになった。
パイロットの操縦
パイロットたちは、JA8119機に発生した異常についてその直後に感知したが、垂直尾翼や機体後部の損傷状態については最後まで認識できなかった。
同機に発生したフゴイド運動とダッチロールは、機首上げ角度20度 - 機首下げ15度、機体の傾き右60度 - 左50度の動きを周期的に繰り返すもので、大きな動揺にさらされた。パイロットたちは油圧が失われた状況のもと、エンジン推力を増減し、また、降着装置(ランディング・ギア)を降ろすことで空気抵抗を増大させ、機体の安定を図った。これらの操縦によってフゴイド運動の軽減と高度を下げることに成功した。しかし、ダッチロールの軽減や針路のコントロールはできなかった。
異常発生の20分後には高度7,000ftまで降下したが、そのころ同機は進路を北西に変え、群馬県南西部の山岳地帯へと向かっていた。油圧不動作の代替手段として電動でフラップを展開したが、機体に大きな傾きが生じた。機首を下げて急降下し始めたため、パイロットたちはエンジン推力を増加させ機首を上げようとした。わずかに機首が上がり始めたが間に合わず墜落した。
----- 以上、ウィキペディアからの引用 -----
ついでなので http://www.mlit.go.jp/jtsb/kaisetsu/nikkou123-kaisetsu.pdf に在った、事故調査委員会の報告書についての、国土交通省の妙に丁寧なイイワケ的反論から、その末尾にある、公表されてる 「 操縦室ボイスレコーダー音声 」 の墜落までの最後の2分間に当たる部分を全引用しておく。 画像化した pdf 画面 はこちら。
● ボイスレコーダー音声記録 …の筈が余計な注釈でそうなっていないことに注意
( 以下で青色文字になってる 「 」 内の会話部分以外は全然ボイスレコーダー音声記録ではなく、事故調査委員会が勝手に付してる、ト書き様の解説であることに注意。 すると 18h 56’以降、最後の 20 秒間には相次ぐ 2 重の接触、或いは第 4 エンジンへの空対空ミサイル攻撃、と最終的な墜落までが起きてる最中なのに、何の音声も発していない。 その不自然な空白を、それとなく埋めてゴマカシてるのが、この解説文なのである。 つまり、以下で黒字になってるト書き様の一見丁寧で分かり易い説明部分こそが、其処に本来あった音声を全部消して隠してる部分なのであり、其処にこそ何か隠したい重大な音声が記録されていたのであると思われる。 隠蔽の有る事自体を何とか取り繕うべく挿入されてるのが、この解説部分なのだろう。 故に、こうした説明文で抜けてる部分こそが最も怪しい …と気付かなければならない。)
----- 以下、引用 -----
18h 54’19” 高度約11,000フィートで周波数を切り替え、「現在位置知らせ」との要求に
東京アプローチは「羽田の北西55海里、熊谷の西25海里の地点」と回答。同機は了承。
18h 54’31” フラップ角が5ユニットになったころ、フゴイド運動が励起、エンジン操作が行われた。
18h 54’46” CAP「あたま下げろ」、?「...」、COP「かじいっぱい」
18h 54’50” フラップ角が10ユニット、右横揺れ角が増大し右旋回が始まる
18h 55’01” CAP「フラップ下りるね」、COP「はい、フラップじゅう」
18h 55’05” 東京アプローチは「羽田も横田も受け入れ可能」と送信し、同機は了承。
18h 55’15” CAP「あたま上げろ」、F/E「はい、了解しました」、CAP「あたま上げろ、あたま上げろー」
18h 55’27” CAP「あたま上げろ」
18h 55’34” COP「ずっと前から支えてます」
18h 55’42” COP「パワー」、CAP「フラップ止めな」、?「あーっ」、CAP「パワー、フラップ、みんなでくっついてちゃだめだ」、
COP「フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ」、CAP「フラップアップ」、COP「はい」
フラップ角は約25ユニットとなり、直ちに上げ始められたが右横ゆれ角は50〜60度に増加。
18h 55’56” CAP「パワー、パワー、フラップ」、F/E「上げてます」
18h 55’57” 機首が下がり、縦揺れ角は機首下げ15度ほどになり、急にパワーが大きく加えられたが、
右急旋回中にもかかわらず左側エンジン出力が大きい。気圧高度は約10,000フィート。
18h 56’04” CAP「あたま上げろ、あたま上げろ、パワー」
18h 56’07” 急激に高度を下げ始め、速度の急増及び右急旋回により垂直方向加速度が急増し始めた。
機首下げ約36度、右横揺れ角約70度。
18h 56’11” 降下率18,000フィート/分
18h 56’14” GPWS ( 自動警告音声 )「Sink rate, whoop whoop pull up...」
18h 56’18” パワー最大、降下停止、垂直加速度は上向き3G程度
18h 56’26” 衝撃音
[ 原注釈 18h 56’頃 一本から松(標高約1,530m)にある樹木に接触し、U字溝(標高約1,610m)の稜線に接触した後、群馬、長野、埼玉3県の県境に位置する三国山の北北西約2.5kmにある尾根(標高約1,565m)に墜落した。 ]
----- 以上、引用 -----
因みに、以下はこの追記を書き上げる直前までの、この件に関する日記のそのままである。
( 日記 ) ( 2019.3.15. 記 )
覚悟を決めて青山透子氏の本を漸く読み始めた
青山氏の本にあった墜落現場の詳細な状況図と、落合由美氏の墜落時証言記録とを突き合わせての分析からは、( 公式発表にある最初に松の木との衝突で右翼外側の第 4 エンジンが脱落し、次に片翼が屋根と接触して機体後端部尾翼が脱落して云々…ではなく ) 以下の事が判明してきた。
● 落合由美氏の証言内容を要約すると …
左右に傾きながら大きく激しく揺れ続けていた機体の左側窓から少し前方に富士山が見えてそれが真横に来た辺りで頭を下げて膝の間に入れ、安全姿勢を取った。
少しすると左右の揺れがどんどん激しくなり、( 上下動は無いまま ) 物凄い揺れとなり、それから直ぐに急降下が始まり、( 振動は無く ) 真っ逆さまに墜落して行き、機体後端部では一度だけ衝撃があり、機体が回転 …の印象は無く、投げ出されたような感じだった。 …とある。
この証言とそぐわない事故説明は全部ウソだということになる。
墜落現場状況図と上空からの墜落現場写真からは、日航 123 便は山頂 ( …と墜落現場状況図には記されているが実は山頂でも何でも無かった ) 近くの岩塊?の東北東 40 メートルの位置に、右翼を下にしたほぼ 「 横倒し 80 度 」 程の姿勢で、東北東方向から相当な急角度で突き刺さるように墜落してると分かる。
何と、左の主翼が激突中心の直ぐ横に、そのままの格好で横たわってる。
最初に機首右下側が地表に衝突し、機首前部が折れて西南西方向に跳び、機首後部 A は完全に破砕してしまい、前部胴体 B と C は夫々其処より前のドア位置で破断して折れ跳び、前後に回転して北西方向に跳び、裏返された状態で落ち、後部胴体 D は北西方向へと大きく振られながら空中で全破砕し、後部胴体 E は ( その瞬間を微細に見れば ) 前方から順々連鎖的に波及して来る衝撃をいちばん最後に受けると、最も早く D との間のドア部分が破断して折れ跳び、( 偶然にか墜落時の西方向への速度成分を殆ど失って ) 北北西方向に僅かに 30 メートル程しか跳ばずに ( 墜落地点より 20メートルも低い ) 若い松の生えた急斜面に落ち、そのまま松の樹木を薙ぎ倒しながら、全く破砕せずに急斜面を北北西方向に 150 メートル滑り落ちて菅ノ沢第 3 支流にまで達した…と読み取れる。
( 墜落直後の時点ではまだ 「 多くの生存者 」 の居た事が確実な ) 後部胴体 E はつまり、その受けた最初の衝撃で他の部分からは切り離され、B 、C 、が巻き込まれた機体の西北西方向への前後反転 ( 裏返し ) には全然巻き込まれずに済んでおり、しかもそれが折れる瞬間の 「 衝撃 」 は、その衝撃を E が受ける以前の、「 機首、A 、B 、C 、D 、各々をその 1 つ前のドア位置で破断させ、A と D を破砕させた夫々の衝撃の総和 ( = 緩衝効果 ) 」 に依って最大限に減衰した後の最小衝撃だったのだと考えられる。
正に奇跡的に恵まれた 「 落ち方 」 だった …と判って来た。
右主翼に付いていたのが第 3 エンジンと行方不明の第 4 エンジン、左主翼に付いていたのが第 1 エンジンと第 2 エンジンであった …と判った。
遺体の炭化と損傷の凄まじさには、右翼を下側にしたほぼ垂直の姿勢かつ急角度で山頂の手前 40 メートルに東北東から突き刺さるように墜落した巨大な 747 - 100 機体の力積 ( 運動エネルギー ) の大半をモロに受け止めた筈の、機体右側前方から中程 …という事情がもしかすると少し関係してるのかも知れない …と気付いた。
なのでこの運動エネルギーを確認しておく必要がある。
( 日記 ) ( 2019.3.16. 記 )
未明に青山透子氏の本2冊を読了した。
( 日記 ) ( 2019.3.28. 記 )
未明に寝落ちして目覚めた時に奇妙な未知情報を含むいつもの明晰夢を見ており、その中で 「 旅客機の座席の固定方法は前後左右は固定も上には簡単に動いて抜ける 」 というような解説を読んだハッキリとした記憶があった為、起きて直ぐに気になって 「 旅客機の座席の取り付け方 」 について調べ始めた。
( 結局この夢は 「 ガセ夢 」 だったと判明したものの、お陰で色々と気付き、決して無駄ではなかった。 )
調べてみても現在の一般的な旅客機のシート固定方法を推測出来そうな特許公開広報のひとつに行きあたったのが精々で、30 年以上も前のジャンボ機のシート固定方法についてまでは、到底 Web 上だけでは調べが付きそうも無かったが、そうこう調べてる内に基本的な 2 つの事実に気付いて、問題そのものはほぼ全部解けてしまった。
● 現在の、恐らくより合理的でシート間の間隔を変えられる 3 連 1組のシートは、客室の床に予め固定されてるシート固定用のレール上で位置決めされ、ボルトで固定されてるだけではあるが、( 離着陸やダッチロールを想定して ) 前後左右の加速度への十分な耐性強度を持つと共に、不時着での胴体着陸やエアポケット等で生じる上下振動についても当然考慮されてるから、上下方向に関してもも必ず十分な強度でシッカリと固定されていなければならないこと。
● シートの固定そのものは頑丈でも、客席の床そのもの ( やレール部分 ) が機体の地表への激突時に破壊され、崩壊した場合、その上に固定されてるほぼ総てのシートは、3 つ 1 組のままで客室の床から離脱し、そのまま空中へと放り出される可能性は十分にあり、その放り出されて実際に落下したのが御巣鷹の尾根の北側急斜面だった場合、その落ち方と乗客の姿勢次第では生き延びられた可能性が十分にあったこと。
( …となると例の M 氏の証言は 有り得ない話 では無くなるワケだ。 )
● 123 便の地表激突時の運動エネルギー概算
念のために、ジェット燃料 ( ケロシン ) の燃焼以外にも、ちゃんと計算しておくべき 123 便の墜落で瞬間的に生じたエネルギー ( 運動エネルギー ) を、概算ではあるが計算しておく。
123 便の機体はボーイング 747 - 100 型である。
公表 機体データから 123 便の墜落時 推定 機体総重量 約 300 トン
123 便の 「 御巣鷹の尾根 」 への墜落直前の高度 2520m
御巣鷹の尾根 墜落地点の標高 1570m ( つまり 950m の急降下直後 )
123 便の 「 御巣鷹の尾根 」 への墜落時の推定速度 凡そ 480km / 時 ( 133m / 秒 ) だが実際の激突時はもっと加速されてたろう。
300000kg × 133m / 秒 × 133m / 秒 × 1 / 2 = 2653350000 ジュール
123 便の 御巣鷹の尾根への激突時の推定運動エネルギーは、依って概算で凡そ 26 億 〜 30 億ジュール程となる。
但しこの 26 億 〜 30 億ジュールのエネルギーは、その殆どが 熱 というよりは機体と現場の全体を破壊する破壊エネルギーとして、主に作用したことになる。
因みに、30 億ジュールは 100 万キロワット級の原子炉の発生エネルギーの約 3 秒間分に匹敵するが、ジェット燃料 ( 1 リットル当たり 46.2 メガジュール ) に換算すると、30 億ジュールは僅かに 64kg ( 約 76 リットル 〜 83 リットル ) 程のエネルギーでしかない。
123 便、墜落時の搭載燃料は ( 墜落直前の旋回時に空中で投棄してなければ ) 凡そ 100 キロリットル ( 10 万リットル ) レベルである。
すると 123 便の墜落で生じた総運動エネルギーは、推定搭載燃料のエネルギーの 1 / 1000 以下である。
従って、この墜落時の激突エネルギーは、遺体炭化の原因ではあり得ない …と考えられる。
以上
文責 うつぎれい