Maleficentia  ( マレフィセンティア )

いちばん詳しい 「 マレフィセント 」 ファンの観賞日記

    By Maleficenteena    




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" Princess shall indeed growing grace and beauty, loved by all who meet her "


上の画像は Walt Disney ; Maleficent & Sleeping Beauty よりの引用です。 画像クリックでマレフィセント予告編へ




Maleficentia ( マレフィセンティア )


Copyright 2014.8.20. By Maleficenteena





( マレフィセント 観賞日記 のまとめ ) ( 2014.8.23. 〜 9.1. に追記 ) ・

映画 「 マレフィセント 」 を見て …

辞書で調べてみると、英語でマレフィセント ( maleficent ) とは、元々は別に魔女の名前ではなく、「 悪事をはたらく ・悪意に満ちたる ・邪悪な 」 等の意味を持つ形容詞であると判る。 ( つまり彼女は典型的な悪役 ・敵役として設定されたからこそ、その名前だったのである。 )

それにも拘わらず映画 「 マレフィセント 」 は、女性が観てきっとスカッとするだろう “ 強くてカッコイイ女性の物語 ” である。

強くてカッコイイとは言っても 「 ニキータ 」 や 「 キルビル 」 や 「 ルーシー 」 みたいに、女がオトコ顔負けに強くて暴力的 …というような映画ではない。

男の面白がるそうした男前な女ヒーロー物語は、主人公をただ男から女に置き変えただけだから、女性が見ても共感しにくく、唯々 “ そういうアクション映画 ” …なだけである。

「 マレフィセント 」 は、女が “ ちゃんと女らしく優雅 ” なままで強くてカッコイイ、観た女性にきっとカタルシス ( 魂の浄化 ) を感じさせる、多分に 「 セーラームーン 」 的な映画なのだ。

原作 「 眠れる森の美女 」 のマレフィセントは、その登場シーン前半での優雅なたたずまいを除けば、実はあんまり女っぽくない。

空のカミナリ雲から稲妻を放つその男性的な攻撃も、喋り方も、“ 禁断の山 ” での手下に対する剣幕も、表情も、どちらかと言えばかなり男っぽい ( ラピュタに出て来た空賊の母親 ドーラ の如く ) 老婆のそれだった。

まあ、呪いをかけて既に 16 年も経っていたから、彼女が歳を取るのも当然ではあったが。

 ( 注 ; 老婆の女性ホルモンは同年齢の男性より少なくなって性差が逆転する。 その為、一般に老婆は男性化し、お爺さんよりお婆さんの方がずっと男っぽくなる。 おっと脱線した。 もとい! )


が、この新しい映画でのマレフィセントは、呪いをかけて 16 年たっても、まだまだ優雅に女性のままであり続ける。

マレフィセントが大きな翼を剣のように使って戦う場面は確かにあるけれど、彼女の魔法の掛け方も、使い方も、ふんわりと優雅で、荒々しさの殆どは、狼や竜に変身したディアヴァル ( ハンサムなカラス ) に任せ、自らは変身もしなかった。

そして彼女は、呪いを掛けた幼いオーロラを見守る内に、あろうことか母性に目覚め、仇の娘に真実の愛を注ぐようになってしまう。

● もしかすると 映画 「 マレフィセント 」 最大の秘密
 [ 尤もこれは、マレフィセントが件の呪いを掛ける前に 「 姫は美しく優しく育ち、“ 誰にでも愛される ” ようになるだろう 」 " Princess shall indeed growing grace and beauty, loved by all who meet her " と深遠な魔法の贈り物をしていた事を自分ですっかり忘れていて、その “ 誰にでも ” にマレフィセント自身も入ってる事に全然気付いてなかったからなのかも知れない。 物語の後半で分かる “ 呪いや魔法の、その掛けた主との独立性 ” から言えば、そういう事は十分に有り得る …という理屈になる。 オーロラのあの何者をも怖れない屈託の無さと笑顔と優しさはつまり、マレフィセントからの至上の贈り物であり、それは須らく “ 誰にでも愛される ” 赤ちゃんの特徴とまさに同じものであり、そしてマレフィセントの心はオーロラのそうした何物にも分けへだてのない優しい様子を見ていて少しずつ動くのだから、すべてはマレフィセントの掛けた素晴らしい贈り物の魔法のゆえであって、マレフィセントはまさに 「 自身の掛けた魔法によって自身の掛けた呪いを解く 」 べく運命づけられていた …のだとも解釈出来る。 この日5回目を観に行って漸く、もしかするとこの映画の脚本家さえ気付いて無かったかも知れない、この真相に気付いてしまった。 ( 笑 ) これ、アンジェリーナ ・ジョリーに話したら多分面白がると思うので、誰か彼女に直接連絡の取れる人、良かったら、こういう解釈があるのだと、どうか本人にちゃんと英語で伝えてくれい ]

マレフィセントの放つ憎しみや怖さは、男や、男性社会の侵略主義や破壊主義によって傷つけられ虐げられた女と、生きとし生きるもの総ての放つ、怨念故の憎しみや怖さである。

が、その怖さは、マレフィセントがオーロラを見守り、愛し、救い出そうとすることで溶ける。

だから、マレフィセントが ( オーロラの助けで ) 自らの翼を取り戻した時、そして城の窓を突き破って大きく翼を拡げた瞬間、観てて思わず涙が出てしまう。

頑張れ、マレフィセント、早く逃げて  …良かった

…なんて、まるで子供みたいにハラハラして、こんな気持ちになるの、本当に、久しぶりだ。  ( ナウシカ以来だろうか? )

その刹那、「 ET 」 の自転車が空に飛び立つ場面や、ファンタジア2000 「 火の鳥 」 のクライマックス、復活を遂げた森の中の、妖精のあの嬉しそうな表情を見た瞬間 …と同じ感動が押し寄せた。

強く生きて、世界を見守り続けてマレフィセント

マレフィセントは “ 女性の解放、と女性の台頭 ” のアイコンである。

だからこの映画は、男と男社会に傷付けられて倒れ、塞ぎ込み、友を得て漸く立ち直り、やがて小さな子供への愛によって復活し、翼 ( 力 ) を取り戻し、勝って、全てを許し、宥和して、この世界に女性の統べる平和を創り出そうとする …女性による世界の解放の “ 化身 ” についての物語である。

それ故にこれは、古の童話と整合する新しいエピソード ( 挿話 ) なのではなく、同じ素材を使って作られた今の時代の為の新しい童話、女性の魂の解放 …を謳い上げた象徴的な映画なのである。

そうではないだろうか?

もしそうでなくとも、この映画は、あの 「 セーラームーン 」 に1度でもワクワクした事のある女性たちには、きっと、必見の 「 魂の浄化ファンタジー 」 である。


「 マレフィセント 」 の、 「 アナと雪の女王 」 に匹敵する興業的大成功、を心から祈ろう。

まだ上映してる間に、もう一度、この素敵な物語を見に行こう。


もう4回も観に行ってしまった。

こんなこと …本当に珍しい。




● ウォルト ・ディズニー ・ジャパンの担当者の方へのお願い

 ところで今年のクリスマス辺りにでも、特別にオリジナルの 「 眠れる森の美女 」 を、あの懐かしい旧 ・日本語吹き替え版もしくは英語版 ( 日本語字幕 ) で、1 〜 2 週間でもいいからリバイバル上映してくれないだろうか?
むろん DVD や BD でなら簡単に観られるとも言えるのだが、今回 「 マレフィセント 」 を観て、またあの懐かしい旧 ・日本語吹き替え版を大画面で観てみたくなってる人は、きっと私の他にも沢山居ると思うからだ。
何故ならこの下の方にも詳しく記したように、あの懐かしい旧 ・日本語吹き替え版は特に、映画館でしか観られないままで現在にまで至っており、古くからのファンにとって今や本当の 「 幻 」 となってしまっているからである。
あの懐かしい旧バージョンでもう 1 度観たいと思ってる人は、日本中にきっと山ほどいる筈なのである。





以下は 「 マレフィセント観賞日記 」 の元々である。

 ( 内容が上と 所々でダブってるのは、どうかご容赦。 こうした道筋を辿って私は漸く上の認識に行き着いたのである。 )


( マレフィセント観賞日記 その 1 ) ( 2014.7.7. 記 )

「 マレフィセント 」 を観て来た最初の印象

 原作の 「 眠れる森の美女 」 の大大大ファンとしては大変なショック!であった。

 何しろ物語の辻褄が全然合わない! 何が “ 本当の物語 ” だ! 結末まで違うじゃないか?!

もしかするとこれは、黒澤明の 「 羅生門 」 ( 芥川龍之介の 「 薮の中 」 の映画化 ) の、語り手違いで話が全く変わってしまう …という仕掛けに強く影響された脚本 … なのだろうか?

● だから最初の評価は当然こうなる …

この作品は、元作品の 「 眠れる森の美女 」 からこの魅力的なキャラクターを借りて来てるだけの、オリジナルの設定を少しも尊重していない、罰当たりな実写版 別物語  …としては、確かに丁寧に、しかもちゃんと本気でシッカリ作られてる。

だから …だから非常に魅力的で、ついつい惹き付けられるのだが、 …元作品と整合性が無いという点で、う 〜 ん、どちらかと言うと私は嫌いである。

こんなにも元作の内容を蔑ろにした作品を、もしも創業者のウォルト本人がまだ生きていたら、果たして作る事自体を許可しただろうか?

絶対に、絶対に、絶対に! 許さなかったと思う。

ウォルトは同じ作品の 「 二番煎じ 」 や 「 安易な続編 」 が、何しろ大っ嫌いなのだ。

それにオリジナルの 「 眠れる森の美女 」 は、次第次第に洗練されていったウォルト存命中の全作品 ( いわゆるディズニー ・クラシックス ) のまさしく白眉 * である。

封切り当時にこのシネスコ版 作品を、渋谷パンテオンなどの大画面で観た世代の多く、特に女性の多くにとっては、まさに忘れることの出来ない、ディズニーアニメの最高傑作なのである。
 ( 「 シンデレラ 」 と 「 眠れる森の美女 」 に出会ったが故に、ディズニーに夢中になった女性たちは、日本中、いや世界中に山ほど居るのである。 )

そして創業者ウォルト ・ディズニー自身にとっても、紛れもなく最も凝った芸術的アニメーション作品として、この作品は非常に大切に創られたものなのである。

 ( 注 * ; 個人的な趣味の異なるボブ ・トマスなど一部の論評では、この作品の 「 美 」 の価値を殆ど評価しようともせずに 「 人間味が欠けてる 」 等と勝手に決めつけてるものの、私はそんな論評を全く認めない。 誰が何と言おうと 「 眠れる森の美女 」 はディズニー ・クラシック中の最高傑作である。 断じてそうだ。 )

故にこの元作品を好き勝手に作り直すのではなく、オリジナルの作品をもっと尊重し、それを活かしたままエピソード ( 挿話 ) を加える …というのでない限り、こうした名作には断じて手を着けるべきでない。 ( …と、この日の私は考えていた。 )



ちなみに「 眠れる森の美女 」 日本語吹替え版の音声について


「 眠れる森の美女 」 の日本語吹替え版は、1960 年夏の 封切り当時から、1971 年 7 月からと、1984 年 7 月からのリバイバル上映時まで、あの格調高い最初の台本での吹替え音声がずっと採用されていた。

が、ディズニー ・クラシック ・アニメのビデオ化が、1987 年に米国で始まって以来、その格調高く心地よい最初の台本での日本語版吹替え音声は、残念なことに唯の1度も、日本語版ディズニービデオ ( や LD や DVD やブルーレイ ) の吹替え音声として採用された事が無かった。

 ( 実は 「 声 」 というより、台本が変わりセリフが変わってしまってる事の方が、この作品の昔からのファンには辛いのだ。 )

そのため高田敏江や北林谷栄が吹き替えていた、あの格調高く懐かしい日本語版は、今や “ 幻の日本語版 ” となってしまった。

唯一例外と言えるのは、何と音楽 CD として、この最初の頃の日本語版サウンドトラック全体を収録した CD が、過去にたった1度だけ日本コロムビアから発売されていた …というだけなのである。

そして映画館での上映でも、1995年12月16日からのリバイバル上映以降、マレフィセントの呪文がやたら説明的口語調で不必要に言葉数が多く、格調もへったくれもないこれまた新しい台本にと、無残にも変わってしまったのである。

 ( その部分の元々の台詞は 「 茨の森が彼の墓。死の霧に乗り空を飛べ!呪いを込めて今ぞ行け!ステファンの城を取り囲め! 」 「 ああ!?そんな筈は! 」 「 こうなったら私が相手だ! 」 「 王子!地獄の呪い、今此処に! 」 だったのだが …。 )

その為、1980 年代までにこの名作と出会ってしまってたファンにとっては、余りにも違和感が有り過ぎて、英語版 ( 日本語字幕 ) 上映を選んで観るのでない限り、もう映画館でも ( と言っても最早映画館での上映は無いのだが ) 、DVD や BD でも、昔のようには感動して見られない状態 …となってしまっているのだ。

英語版では、ちゃんと メアリー ・コスタ や エレノア ・オードレ の原初音声のまま、ビデオ化されてる米国内では到底考えられないような 「 妙な改変 」 が、日本語版では平然と為されているのである。

そこで、現在の 「 ダイアモンド ・コレクション 」 に同梱されてる、 「 MovieNEX ワールド 」 機能を使って、この今では幻の 「 最初の日本語吹替え版 」 の音声を組み込んだ オマケ 版を、是非ともダウンロード可能にしてくれるようにと、現在、私自身がウォルト ・ディズニー ・ジャパン社に対して提案中である。

ディズニー本社の資料部門には、当然、この最初の日本語版も保存されてる筈だからだ。

( 文中、敬称略 )




( マレフィセント観賞日記 その 2 ) ( 2014.7.24. 記 )

今日は 「 マレフィセント字幕版 」 の方を観てきた

「 マレフィセント 」 は、元々の 「 眠れる森の美女 」 とのストーリー整合性やキャラクターの性格や役割やが無視されてるので “ やはり凄く嫌 ” なのだが、現在の世界認識と状況を踏まえての 「 全く別の物語 」 として見ると、丁寧に作られたこの作品はやはり大変魅力的で、英語版 ( 字幕版 ) の方もちゃんと見ておかずにはいられなくなったのである。
 ( エンディングロールで主題曲は、やはり、荘厳な声質のラナ ・デル ・レイの方がずっと良かった、と言わざるを得ない。)

考えるに、この作品の主題は実は 「 アバター 」 と全く同じで、 「 侵略主義のアメリカ男社会のやり方 」 と 「 自然や世界と調和して在るがままに生きてゆきたい女性的な価値観 」 の間の軋轢を描いていて、最後には女性の勝利で漸く世界に平和が齎される …と示唆するもののように思える。

だとすればまさしくその通り …で、マレフィセントは虐げられてきた女性たちの “ 反抗の化身 ” として、ただ必要最小限度の防御戦を戦って生き残ったチャンピオン ( 代戦士 ) なのである。

だから 「 頑張れ、マレフィセント 」 …と、ついつい応援したくなってしまう。

今では、オリジナルの 「 眠れる森の美女 」 とは全く別の、新しい別の物語として、この 「 マレフィセント 」 が大好きな作品になってしまった。


ところで、映画 「 マレフィセント 」 は、観客動員数では現在、あの “ 戦闘礼賛 ( モンスター版 闘犬アニメ ) ” のポケモンに僅差で 1 位を取られたものの、興業収入や週間興業成績では 3 週連続 1 位のままである。

ついつい応援したくなる美しい作品なので、多分上映中にもう何回か、見に行くかも知れない。

頑張れ 「 マレフィセント 」 !



( マレフィセント観賞日記 その 3 ) ( 2014.7.30. 記 )

マレフィセントはセーラームーン以来の全女性向け魂の浄化 ( カタルシス ) 快感ストーリーである

前に書いた通り、この映画は、元作品のアニメーション 「 眠れる森の美女 」 とは全然整合性を持たない、登場人物の名前とデザインのみを活用して再設計された、完全に別の物語である。

そう解釈して見ないと元作品のファンは全然納得出来ないだろう。

なにしろ、あの気の弱そうなステファン王は卑怯な悪者にされてしまってるし、フィリップ王子も、3人の妖精も、まるで役立たずで全然活躍しない。

更に、あのやかましい見張りのカラスは、なんかとってもイイ人?だし、恐ろしかった筈のマレフィセントは何とも素敵で可愛らしいし …である。

だから創業者のウォルト本人がまだ生きていたら、「 眠れる森の美女 」 の設定を台無しにしてしまう、このような作品は絶対作る事など出来なかったろう …とは誰でも思う。

にも拘わらず、この作品の出来は素晴らしく、新しい伝説となるべく名作である。

元作品やペローの童話では男がヒロインを救うが、この作品では強くて優しい女がヒロインを救い、人間の男は ( カラスの化身を除けば ) 大半が役立たずか、暴力主義 ・侵略強奪主義の卑劣漢である。

この物語は、純真だった女性の愛が富と権力に目が眩んだ卑劣な人間の男に裏切られ、酷く傷つき、心を閉ざし荒ませ ( すさませ ) ながらも何とか立ち直って、遂に愛する心を取り戻し、最後にはその裏切った相手と対決して、真の力 ( 翼 ) を復活させ、雄々しく勝ってしまう。

  …という、少なからずこの世で同じ目に遭うかも ( 遭ったかも ) 知れない、ほぼ全女性必見のカタルシス ・ファンタジー ( 魂の浄化物語 ) である。

故に、この映画はまさしく “ 女性のための映画 ” である。

この映画のプロローグと結末は 「 アバター 」 と似てて、妖精たちの自然との共生思想 ( ネイティブ ・アメリカンや環境保護や自然保護の思想に近い ) は、人間世界の男性的な環境破壊 ・開発主義に対して抵抗する、共生的な女性の考え方でもあり、また秘かにアメリカ式の侵略戦争や暴力主義に対する批判映画のようでもある。

これは、この映画の監督のストロンバーグが当の 「 アバター 」 の撮影でアカデミー賞を獲得していたり、マレフィセント役を務めたアンジェリーナ ・ジョリーが、全米最強の自治権を持つ ( FBIも一切立ち入れず、独自のビザ発行権さえ持つ ) 米国東海岸北部地方に定住するイロコイ族インディアンの血を引いてる事 …とも、何か繋がりが有るのかも知れない。

元より、子供を産んで育てなければならない女性が、宥和的な平和をこそ望み、好戦的な男性権力者たちの意地や沽券や権力欲によって繰り返される対立や戦争に批判的なのは、全く当然の事である。

そして多くの女性にとっての 「 カタルシス 」 となった作品、マンガやアニメや実写版の 「 セーラームーン 」 が、かつて少女たちにもたらしたあの “ 快感 ” と同じものが、この 「 マレフィセント 」 には間違いなく有るのだ。

何しろ傷つけられた女が立ち直り、自分を裏切った悪い男を圧倒的なパワーで正々堂々と叩きのめして勝ってしまう、女性にとってはまさに胸のすくような映画なのである。

そして最後はちゃんと、ハッピーエンドなディズニー映画 …なのだ。

「 女性の時代 」 に、この映画が記録的な大ヒットにならない筈がないのである。

元々の 「 眠れる森の美女 」 が大好きだった人も、この映画を全く新しい別の物語として割り切って観れば、この映画が今の時代にこそ必要な新しい名作なのだ …と実感するに違いない。


ところで、ハリウッドの好戦的で破壊的な、カッコ良くても乱暴な男性的アクション映画の大半が、実は米国国防総省 ( ペンタゴン ) の広報宣伝予算を使って作られてるのを、知ってるだろうか?

そうしたカッコいい戦闘シーンの多い映画 ( エイリアン2 等も含まれる ) には、ペンタゴンが製作資金の大半を出すのである。 ( 一方で反戦的な戦争映画にはビタ1文たりと出さない。 )

その事を一旦知ると、男性的な勇猛な戦いを事更に強調したハリウッド映画が、戦闘シーンをカッコ良く撮ってる本当の理由が判って来る。
 [ 他方、撃たれても直ぐには死なず、野汰打ち回る犠牲者の様子などは、( 現実にはそれこそが最も多いにも拘わらず、写すと逆効果になるからと ) 殆ど表現しない …のがお約束である。 ]

それは 「 実は米軍全体にとっての使い捨て部隊 」 である “ 海兵隊 ” の志願兵を常時募集する為の 「 海兵隊宣伝映画 」 として、そうした 「 戦闘シーンの多い映画 」 が作られてるからこそ、そうなのだと気付ける筈である。

米政府と米軍とは、そうやって貧しい階層に育った血気盛んな若者たちを、アクション映画の派手な銃撃戦シーンで、こんなにカッコいいんだゾと騙して煽り立て、おだて上げ、比較的高い給与と、もしも除隊まで生き延びられた場合の 「 大学進学資金の給付と資格 」 で釣り上げて、過酷な死地にと送り込み、毎年かなりの数の若者を死なせ続けているのである。 ( 何しろ使い捨てなのだ。 )

つい最近、安倍政権が強行した 「 憲法解釈の変更での集団的自衛権の行使容認 」 というゴマカシもまた、同じく好戦的で男性的な意地や価値観によって、ここ70年近くも平和だった日本を、再び戦争に巻き込もうとする、危険極まりない “ 沽券大好き男 ” の始めた 「 暴走行為 」 である。

今後の時代と世界に必要なのは、男性的な意地や沽券や暴力主義ではなく、女性的 ・現実的な共生や宥和、連帯や平和である。

男や男の権力者に任せておいたら、そうした権力主義の男たちは、何処までも戦争を本当にはやめようとせず、“ 国民の安全を守る為に ” と称してまた戦争を始めようとする。
そしてその最大の被害者は、いつも、女性や子供たちである。

映画 「 マレフィセント 」 こそは、女性が勝って創り出すべく自然と調和のとれた宥和的な世界の、まさしく象徴的な映画なのである。

男に任せておいたら、この世界は何時まで経っても、真の平和にならない。

男たちの作る社会が、対立し合って無駄に壊し続けてるこの世界を、女が統べて ( 統一して ) 、もっと優しく調和した、平和でマトモな、安全な世界にしなければならない。

マレフィセントは、そのような志の象徴的な女性アイコンとなり得るのだ。



( マレフィセント観賞日記 その4 ) ( 2014.7.31. 記 )

マレフィセント字幕版 …をまた見に行って来た

既に吹き替え版と合わせて3度目だが、何回見ても、美しく素晴らしい。

何故か、マレフィセントが翼を取り戻した瞬間と、窓を突き破って脱出した瞬間、そしてラストシーンで雲の上にまで舞い上がった瞬間に、涙が出そうな程に感動してしまう。



( マレフィセント観賞日記 その5 ) ( 2014.8.1. 記 )

「 マレフィセント字幕版 」 の3度目、吹き替え版を入れると4度目である

多分、もう1回は観に行くだろう。


( マレフィセント観賞日記 その 6 ) ( 2014.8.3. 記 )

映画 「 マレフィセント 」 に込められたテーマ

● 貪慾で好戦的 ・暴力的な男たちの手に、このまま世界を委ねておいたら、この素晴らしい世界は台無しにされてしまう。

● マレフィセントこそは紛れもなく、男性支配社会からの女性解放を象徴する映画である。

● この世界をもしも女性が統治していれば ( 世界中の国々の統治者がみんな女性であれば ) 、少なくとも戦争なんて起きない。

 子供を産んで育て上げなければならない女なら、沽券や意地の為に戦争を始めたり、続けたりは決してしない。

 貪慾で狂暴な男種族にこの世界を任せておいたら、人類はみんな滅びてしまうから、女性こそがこの世界を統治して護るべきである。



( マレフィセント観賞日記 その7 ) ( 2014.8.8. 記 )

「 マレフィセント 」 は現在、週末ランキングでは 1位 → 1位 → 2位 → 3位 → 4位。

が、土 〜 金で集計される “ 週間ランキング ” では、1位 → 1位 → 1位 → 2位 → 2位である。


週末のみならず平日にも観客が絶えず、上映開始から5週間;僅か 35 日間で 50 億円を突破した。

もう 1 〜 2 週間で 60 億円を突破して 「 レ ・ミゼラブル 」 を抜くだろう。

この、女性の活躍を中心に据えたストーリーこそが大ヒットする …という映画の潮流が、今後、もっとハッキリと表れて来るような気がする。



( マレフィセント観賞日記 その8 ) ( 2014.8.23. 記 )

「 マレフィセント 」 また観に行ってしまった。 何と 5 回目である

5 回も見て、やっと判って来たことがある。

マレフィセントは恐ろしい呪いを掛けた筈の仇の娘を、何故か愛してしまうのだが、( 蛇足的に説明すると ) 最初に観た時、これはつまり16年後の誕生日の日没に完成する遠大な呪いを掛けたので、3人の妖精の無配慮で早々と餓死させられたり、夜泣きで衰弱死されたり、崖から落ちて死なれたりしたら呪いが成就せずに困るので、ほぼ育児放棄にも近い状態下に置かれてるオーロラを 16 歳までは何とか保護して生き長らえさせておかなければならず、仕方なく手を出して世話してる内に、遂には成り行きで抱っこまでさせられて、行動 → 感情という例の 「 ジェームス ・ランゲの説 」 の心理生成効果 ( オキシトシン効果 ) がマレフィセントにも働いて、遂に母性が芽生えてしまった …と、他の人々と同じく理詰めで通り一遍に解釈して見終わっていたのだが、今回、5回目を観ていて、この物語にはもっと興味深い別の解釈も有りうる …と気付いたのである。

つまりこれは、その全体がマレフィセントの最初に掛けた 「 魔法の贈り物 」 のせいなのではないか?  …と。

何故なら、マレフィセントは件の呪いを掛ける前に 「 姫は美しく優しく育ち、“ 誰にでも愛される ” ようになるだろう 」 と、強力な “ 魔法の贈り物 ” をしているのだ。

が、マレフィセントはその事自体を自分ではすっかり忘れていて、特にその “ 誰にでも ” に自分自身もが入ってる …という事には、まるで気が付いてなかったのだ。

そういう可能性もあることは、物語の後半で、マレフィセントが自分の掛けた呪いを無理矢理解こうとして失敗してしまった事で分かる。

つまり呪いや魔法には、どうやら “ その掛けた主との独立性 ” が有るらしいことから言うなら、上に述べたような事は十分に有り得る …という理屈になる。

一旦そう考えると、オーロラのあの何者をも怖れない屈託の無さと笑顔と優しさはつまり、マレフィセントからの至上の贈り物なのである。

それは須らく “ 誰にでも愛される ” 赤ちゃんの特徴とまさしく同じものであり、そしてマレフィセントの心は、オーロラのそうした何者にも分けへだてのない優しい様子を見てて、少しずつ動くのである。

だから、すべてはマレフィセントのくれた素晴らしい贈り物の魔法のゆえなのであって、マレフィセントはまさに 「 自身の掛けた魔法によって自身の掛けた呪いを解く 」 べく、最初からオーロラを愛すべく、自分で自分を運命づけていた …のだとも解釈出来るのだ。

この日に5回目を観に行って漸く、もしかするとこの映画の脚本家さえもが気付いて無かったのかも知れない、この真相に気付いてしまった。 ( 笑 )


( マレフィセント観賞日記 その9 ) ( 2014.8.28. 記 )

マレフィセントの「魔法の贈り物」部分の正確な表現の確認とエラ ・パーネル出演場面を確認すべく何と6回目

   …を見に行って来た …のだが、どうも1度で上手く確認出来ない。 ( う 〜 ん、もう1回見に行かないといけなくなったあ。 )


( マレフィセント観賞日記 その 10 ) ( 2014.9.1. 記 )

マレフィセントが英語版で “ 魔法の贈り物 ” を何と言ってるか …を再確認する為に、とうとう 7 回目
  エラ ・パーネル、一瞬の出演部分での、あの美しく上品な横顔も漸く、はっきりと確認出来た。


さてさて、件の贈り物部分で英語版マレフィセントはこう言ってた。

" Princess shall indeed growing grace and beauty, loved by all who meet her "

“ 姫は、それは優雅に美しく育ち、彼女と出会う誰からも愛されるだろう ” …と。 ( むろん字幕や吹き替えとほぼ同じだが。 )

この前段を聞いてお妃 ( リア王妃 ) は無邪気に 「 善い贈り物だわ 」 と言う。
が、それどころではなく、まさしくこの魔法こそは、如何なる悪からも、そして後段の呪いからもオーロラを守り抜く、マレフィセントが無意識に渡した姫への “ 無上の贈り物 ” であり、正にお守りも同然の魔法だったのである。

3人の妖精から贈られた魔法は、「 美しさ 」 と 「 悲しみのない人生 」 、そして 「 夢のような … 」 までで途切れて未完となり、贈られなかった 「 何か 」 である。
だから 「 美しさ 」 についてはマレフィセントのそれと重複してるものの、「 優しさ 」 と 「 出会った誰からも愛される 」 という最高の贈り物は、ただマレフィセントによってしか贈られていないのだ。
因みに 「 眠れる森の美女 」 でもこの前段のくだりはほぼ同じであって、違うのは2番目の妖精の贈り物が 「 悲しみのない人生 」 ではなく 「 歌 」 であった事ぐらいである。
だから勘繰れば、この映画でのオーロラ姫が少しも歌わなかったのは、緑色の妖精フォーナによる、あの 2 つ目の贈り物が欠けていたから …だとも考えられる。 ( もしかすると音痴だったかも知れない。 )


付け足しのトリビア

● 殆どの人が気付かなかった十代のマレフィセント役 エラ ・パーネルとその演じたワンシーン


この下の写真の女性 ( Ella Purnell ) がティーン期のマレフィセントを演じてた、と言われても、大抵の人は映画の中で彼女を見たという記憶が無いだろう。

      


私も同じで C A S T の一覧で彼女の名前を見付け、不思議に思っていたのだが、インターネット上の知人に訊いてみたら、何とそのことをディズニー社に問い合わせたとかで数日後に答が得られた。

ディズニー社からの回答によると、エラ ・パーネルがマレフィセントを演じてるのは、ちっちゃな女のコ ( イソベル ・モッロイ ) のマレフィセントから、オトナのマレフィセントへと急に変わる直前のたった一場面、あの逆光の中でフワリと浮いたマレフィセントがステファンとキスしてる影絵みたいなシーンだけなのだと言う。

確かにあのシーン以外には少しオトナになりかけた十代のマレフィセントの登場場面は無かった筈とは思っていたのだが、まさかほぼシルエットのみのワンカットの為に、インディア ・アイズリーからエラ ・パーネルへの配役の交代なんて到底想像も出来なかったから、ビックリして本当にそうなのかを、前回と今回、その一瞬を見逃すまいと目を皿のようにして確認して来た。

横顔を確認出来るのはホンの一瞬だけなので、そこに集中しないとかなり難しかったが、今回、確かにエラ ・パーネルの横顔だ! …とは確認出来たのだった。  ( それがこの場面である )

上の画像は Walt Disney ; Maleficent よりの引用です。


若手人気英国女優のこれ程の美貌を、ただ横顔のシルエット映像でしか使わない …とは、本当にディズニー映画の贅沢さと密度の高さにはビックリさせられる。

改めて言うまでもないがディズニー作品の密度の高さは徹底しており、観客が物語を理解するのに不要な場面は徹底して省かれており、見せ場を強調するような繰り返し等は決してやらない。

だからこそあれだけの内容の話がたった97分に納まり、原作の 「 眠れる森の美女 」 はたったの75分に納まっていて、本当の意味での無駄なシーンなどは何処にも無く、あっと言う間に映画は物語のクライマックスにまでいってしまうのだ。

 ( ディズニー映画が途中でダラダラして飽きて来たりしないのは、多分に、その徹底した密度の故であろう。 同じ爆発シーンを色んな角度から撮ったのを全部盛り込む、なんて独り善がりを、ディズニー映画は絶対にやらないのである。 )


● 少女期のマレフィセント役は一体何故、二転三転したのか? ( 2014.9.15. 追記 )

交代発表当時の英語情報を色々と読み込んでみると、少女期のマレフィセント役は当初、インディア ・アイズリー ( 下左、組画像の右側 実はオリビア ・ハッセーの愛娘 ) で、マレフィセントに扮した彼女の写真 ( 下中央の画像 ) も僅かに有り、実は冒頭部分の撮影は1度完了してたものらしい。
処がこの部分の 15分間の映像全体にプロデューサーのジョー ・ロスからクレームが付き、少女期のマレフィセント役を ( それより前にオーロラ役のオーディションに参加してた ) エラ ・パーネルに替えて再撮影が行われることになった。
処が処が、その後さらに状況が変わったものらしく、結局少女期のマレフィセントにはエラ ・パーネルより更に年少のイソベル ・モッロイ ( 下右端の画像 ) が抜擢され、エラ ・パーネルは唯ティーン期のマレフィセント ( 上の一場面 ) のみを演じる …ということになったものらしい。
 ( つまり、エラ ・パーネルで撮った他の場面の映像も、もしかすると別に相当量有って 「 没 」 となってるのかも知れないのだ。 )

状況から察するに、当初決まっていたインディア ・アイズリーはアンジェリーナ ・ジョリーと雰囲気が幾分似ており、若いマレフィセントを演じるのに最適 …として選ばれていたのだろうが、実際に撮影された 15分の冒頭部分をプロデューサーのジョー ・ロスが見て、マレフィセントに扮した彼女の何処となく陰鬱で見窄らしい印象では ( 幾らアンジェリーナの容貌とつながり易くとも ) 、冒頭での観客の共感は得られそうもない、 …と判断されて先ずはよりゴージャスな ( とジョー ・ロスは表現したらしい ) 印象の、エラ ・パーネルにと配役が変更されたものと考えられる。
が、そうして極めてセンセーショナルな交代劇で決まった筈のエラ ・パーネルがまた、その後さらに若くて元気一杯 ・明るさ全開 ( 確かにゴージャス! ) な 12歳、イソベル ・モッロイに少女期のマレフィセント役の殆どを、どうやら持って行かれてしまったらしいのである。
 ( この辺の正確な情報はどうも公開されてはいないようなので、色々読んでみた私の推測の範囲ではあるのだが …。 )

    




( マレフィセント観賞日記 その 11 ) ( 2014.9.16. 記 )

もう都合の良く行けそうな昼間の時間には、池袋の HUMAX ぐらいでしか上映してないので、今の内に …と、また 「 マレフィセント 」 8回目を見てきた。

どのコマを取り出しても絵のように美しく
無駄なシークエンスが 1つたりと無く
最初から最後までタタミ込むかのように物語が進み
何度見直しても呆れるほど心地良くて
もう全然飽きない。

これは一体、どうしてなのだろう?

何度見て満足しても
また 1週間も経つと見たくなるのは
さながら禁断症状の如くである。

危ない 私は既に この映画の依存症 となってしまってるのかも知れない。

だが 大人になったマレフィセントが 最初に空を高速で飛び回り まるでスーパーマンの如く
雲の上にまで飛び抜けるシーンに 言い知れない感動を覚える。

こんなにもカッコいいヒロインの登場シーンが他に有っただろうか?

 [ 勿論セーラームーン ( とナウシカ ) を別にすれば …の話だけども。 ]

つまり …あゝそうだ
マレフィセントはスーパーヒーローの添え物なんかではない 完全に独立したスーパーヒロインを
ハリウッド映画が本当に本気で描いた まさしく最初の作品なのではないか?

だからこそ 女性にとってはセーラームーンと同じカタルシスが この作品にあるのではないか?

そうだ きっとそうだ そうなのに違いない。


( マレフィセント観賞日記 その 12 ) ( 2014.9.24. 記 )

「 マレフィセント 」 9 回目を再び池袋 HUMAX で見て来た
 やっと本当に気が済んだ。 心が漸く澄み切って、もうこれ以上は見に行かなくてもよい。

本当に、久し振りに夢中になれる映画に、出逢えた。
ありがとう。 素敵な映画 「 マレフィセント 」 。


それでもきっと、今年の 12月 5日に DVD と BD が発売されたら、また買ってしまうんだろうなあ。



処で、2014年9月8日から東京ディズニーランドでハロウィーン ・パレードが始まるので、まだ上映の続いてる 「 マレフィセント 」 に関連するアトラクションが何か有るかと思いきや、何も無かった。 連携してないなぁ。

 ( マレフィセントこそはハロウィーンに正にピッタリのキャラクターだと思うのだが、映画の続映は、ハロウィーンで六本木の巷などに沢山のマレフィセントが出現するまでは、とても …持たないかも知れない。 本当に残念。 )



参考 ; 「 マレフィセント 」 の興業収入記録

2014年 7月 5日 〜 2014年 8月 20日 までの 47日間で、60億 1137万円。
でも、そこから 2014年 10月 14日 までの 55日間では 5億 2000万円程。
つまり 2014年 10月 14日 現在までのトータル 102日間では 65億 3000万円。
遂に東京でも、上映中の最後の 1館が今週 10月 10日で上映終了。 ( 舞浜ではまだ上映中 )
最終的に 66億円弱 ( 歴代 82 位 ) で終ってしまいそうな気配である。
チャイコフスキーの「眠れる森の美女」が作品番号 66 番なので、 66 億円までは行って欲しかった。 ( って単なる語呂合わせダロ … )
う 〜 ん、でも、とっても残念っ!




● それにしてもバカ高いなあ。 余りにも高過ぎて呆れる日本の映画館入場料金について …

アメリカでさえ、大人 5 ドル ( 約 500 円 ) で当たり前なのに、消費税増税を理由にして その増税分以上の 100 円も勝手に便乗値上げして、既にアメリカの 3 倍以上の入場料とは ! ( 最近は向こうでも 7 ドル位にはなってる …という話もなくはないが、本当にホントか? )

それでいて ( 映画館がガラガラの平日昼間でも ) 完全入れ替え制では、自分の気に入った映画を繰り返して見て “ ますます好きになる ” 人なんて、もとより殆ど居なくなるだろう。

私はたまたま、この映画にだけは ( 元々の原作が死ぬほど好きだった為に ) 嵌まってしまって、こうして繰り返し観には行ってるものの、ここ十数年で同じ映画を 2 度以上見に行ったのは、唯 「 崖の上のポニョ 」 と 「ファンタジア 2000 」だけである。

昔々は散々、気に入った映画 ( 例えばピーター ・オトゥールの 「 クリエイター 」 やイザベル ・アジャーニの全作品や 「 風の谷のナウシカ 」 など ) を繰り返し繰り返し映画館まで ( その映画を支持するというオマージュの意味も込めて ) 見に行ってたのだが、今の料金とシステムでは最早、そんなことは到底有り得ないことのように思え、先ず1回しか見ないことにしている。

無論ビデオやそのレンタルの普及という昔々との条件環境の違いはあるものの、それだけなら日本とも同じ条件の筈のアメリカで ( 居住人口 3 倍弱、入場料金は 1 / 3 で ) 興収が日本の十倍もある …ということの説明がまるでつかないだろう。

つまり、当時の一見すると不効率に見える 「 入れ替え無しの自由席制 立ち見も有り 」 というあの古いシステムは、繰り返し見てますますその映画の細部が判って更に好きになって、また同じ映画を見に行く …という、まさしく映画好き文化を醸成する為の仕組みとして高度に機能していた、 …のだとも考えられるのである。

今のような、映画館側の都合だけでの 「 完全入れ替え / 指定席制 」 と世界屈指の高い入場料では、殆どの人が私と同じように馬鹿馬鹿しくなり、同じ映画を 2 度見に行くなんて、する気が無くなってくるのである。

 ( 結果的に、監督や役者が細部に凝っても、映画館でそれに気付く人は殆ど居なくなるワケだ。 そうした部分は全部 DVD リリース任せでは、益々興業成績は上がりにくくなるだろう。 )

だからこそ、今の映画館では多くの作品が、封切り直後でさえ映画の日やレディースデイだけが混んでいて、他の日はガラガラという悲惨な状況が続いているのである。

このガラガラが目に見える …という事は、それだけで 「 強いマイナス販促効果 」 として働く、という極く基本的なことを、映画館産業の経営陣は恐らくちゃんと理解出来てないのだろう。

昔々の映画館は、それが何となく判っていたからこそ、余程混んでいる時以外 「 入れ替え制 」 を採用しなかったのである。

つまり日本の現在の映画館産業は自分で自分の首を絞めているのである。

 ( 高い入場料を取っておきながら、映画の前に無理矢理関係ない広告や別の映画の告知広告を見せ、その広告収入分の割引すらせず、観客を馬鹿にした不快で威圧的な実は “ 違法誤認冤罪通報 ” までを煽る 「 映画泥棒 」 の脅迫広告を強制的に見せ付けてる、日本の映画館産業の驚くべき厚顔無恥と傲慢さについての詳細分析は、余りにも長くなるのでまた別の機会に譲ろう。 )

まったく、日本中の映画館経営者のアタマはトンデモなくおかしい …としか思えない。

だからこそ、日本では多くの人が映画館を無意識に嫌い、映画館に足を運ばなくなってしまっているのだ、と一体どうして気付かないのだろう?

お わ り








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